んだ。一時溪谷の霧や山彦を驚かした盆踊りの太鼓も、既う今夜からは聽かれない。男はみな山深くわけ入つて木を伐り炭を燒くに忙しく、女どもはまた蕎麥畑《そばばたけ》の手入や大豆の刈入れをやらねばならなかつたので何れもその疲勞《つかれ》から早く戸を閉ぢて睡《ね》て了つた。昨夜などはあんなに遲く私の寢るまでもあか/\と點いてゐた河向ひの徳次の家の灯も夙うに見えない。たゞ谷川の瀬の音が澄んだ響を冴え切つた峽間《はざま》の空に響かせて、星がきら/\と干乾びて光つて居る。
 私は書見に勞れて、机を離れて背延びをしながら※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]《まど》に凭《よ》つた。山々の上に流れ渡つて居る夜の匂ひは冷々と洋燈の傍を離れたあとの勞れた身心に逼《せま》つて來る。何とも言へず心地が快い。馴れたことだが今更らしく私は其處等の谷川や山や蒼穹《あをぞら》などを心うれしく眺め※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]した。眞實冷々して、單衣と襦袢とを透して迫つて來る夜氣はなか/\に悔[#「悔」はママ]り難い。一寸時計を見て、灯を吹き消して、廣い座敷のじわ/\と音のする古疊の上を階子段の方に
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