ない、いつ死んでもいいが、唯だどうかぽつくりと死なして下されとそればかり祈つてゐたのであるが、この分ではもう今夜死んでも憾みは無い、などと言ひながら眼には涙を浮べて居る。五尺七八寸もあらうかと思はれる大男で、眼の大きい、口もとのよく締らない樣な、見るからに好人物で、遠いといふより全くの金聾《かなつんぼ》であるほど耳が遠い。それが不思議に、酒を飮み始めてからは案外によく聞え出して、後では平常通りの聲で話が通ずる樣になつた。そして今度は向うで言ふ呂律《ろれつ》が怪しくなつて、私の耳に聞き取りにくくなつて來た。
 今夜死んでもいいなどといふのを聞いてから、急に斯う飮ませていいか知らと私も氣になり出したのであつたが、いつの間にか二本の壜を空にしてしまつた。私だけは輕く茶漬を掻き込んだが、爺さんはたうとう飯をよう食はず、膳も何も其儘にしておいて何か鼻唄をうたひながら自分の部屋に寢に行つた。私も獨りで部屋の隅に床を延べて横になつたが妙に眼が冴えて眠られず、まじ/\としてゐるとまた耳につくのは雨の音である。まだ盛んに降つてゐる。のみならず、妙な音が部屋の中でする樣なので細めた灯をかきあげてみると果し
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