一寸ばかりも萌え出て居る麥の芽を通してゞあつた。
 信濃《しなの》から燒岳を越えて飛騨《ひだ》へ下りたことがある。十月の中旬であつた。麓に近い山腹に十軒あまりの家の集つた部落があつた。そしてその家のめぐりの嶮しい傾斜に小さな畑が作られ、其處に青々と伸び出てゐる麥の芽を見て私は變に思つた。暖國に生れ、現に暖い所に住んでゐる私にとつては、麥は大抵十二月に入つてから蒔かれ、五六月の頃に刈り取られその間に稻が蒔かれ刈らるゝものといふ考へしかない。それに其處では十月の半だといふのに、もう一寸も伸びてゐるのである。その事を連れてゐた案内者に言ふと、もう一月も前に蒔かれたもので、これを刈るのは七八月ごろだと答へた。すると一年の殆んど全部をその山畑の僅かな麥のために費すことに當るのである。これとても半年以上を雪のために埋めらるゝ結果であること無論である。そしてその尊い乏しい麥をたべて彼等は生きて行くのだ。
 何といふみじめな生活であらうと私は思つた。自然と戰ふといふは無論當らず、自然の前に柔順だといふのがやゝ事實に近からうが寧ろ彼等そのものが自然の一部として生活してゐるのではないかと私には思はれたのであつた。
 暖國ではどうしても人は自然に狎《な》れがちである。ともすると甘えがちで、どこか自然を馬鹿にする所がある。都會人、ことに文明の進んだ大きな都會では殆んど自然の存在するのを忘れてゞもゐる樣な觀がある。唯だ人は人間同志の間でのみ生活して、自然といふものを相手にしない、相手にするもせぬも、初めからその存在を知らない、といふ風のところがある。そして日一日とその傾向は深くなるかに思はれる。

 此間の樣に大地震があつたりなどすると、『自然の威力を見よや』といふ風のことをいふ人のあるのをよく見かけるが、私は自然をさうした恐しいものと見ることに心が動かない。あゝした不時の出來事は要するに不時の出來事で、自然自身も豫期しなかつた事ではなかろうかと思はれる。大小はあらうが、自然もまた人間と同樣、あゝした場合にはわれながらの驚きをなす位ゐのことであらうと思はれる。
 そして私の思ふ自然は、生存して行かうとする人類のために出來るだけの助力を與へようとするほどのものではなからうかと考へるらるゝのだ。多少の曲折はあるにしても、その生存を共同しようとする所がありはせぬかと考へらるゝ。と云ふより、自然の一部としての人間人類を考ふることに私は興味を持つのである。
 たゞ、人間の方でいつの間にかその自然と離れて、やがてはそれを忘るゝ樣になり、たま/\不時の異變などのあつた際に、周章《うろた》へて眼を見張るといふところがありはせぬだらうか。

 火山の煙を見ることを私は好む。
 あれを見てゐると、「現在」といふものから解き放たれた心境を覺ゆる樣である。心の輪郭が取り拂はれて、現在もない、過去もない、未來もない、唯だ無限の一部、無窮の一部として自分が存在してゐる樣な悠久さを覺ゆる。
 常にさうであるとは言はないが、折々さうした感じを火山の煙に對して覺えたことがある。自然と一緒になつて呼吸をしてゐる樣な心安さがそれである。心の、身體の、やり場のない寂しみがそれである。

 高山のいたゞきに立つのもいゝものである。
 一つの最も高い尖端に立つ。前にも山があり、背後にも見えて居る。そして各々の姿を持ち、各々の峰のとがりを持つて聳えてゐる。
 靜まり返つたそれら峰々のとがりに、或る一つの力が動いてゐる樣な感覺を覺ゆることが折々ある。峰から峰に語るのか、それらの峰々がひとしく私に向つてゐるのか、とにかくそれらの峰の一つ/\に何か知らの力、言葉が動いてゐる樣な感じを受取つたことが屡々ある。
 いま斯う書きながら、囘顧し、空想することに於てもそれと同じいものを感じないではない。

 雲が湧く。深い溪間から、また、おほらかにうち聳えた峰のうしろから。
 その雲に向つても私は私の心の開くのを覺ゆる。煙の樣にあはい雲、掴《つか》み取ることも出來る樣な濃いゝ雲、湧きつ昇りつしてゐるのを見てゐると、私の心はいつかその雲の如くになつて次第に輕く次第に明るくなつて行く。

 眼を擧げるのがいゝ時と、眼を伏せるのゝ好ましい時とがある。更に唯だぢいつと瞑《と》ぢてゐたい時もある。
 伏せてゐたい時、瞑《と》ぢてゐたい時、私は其處にかすかに岩を洗ふ溪川の姿を見、絲の樣なちひさな瀧のひゞくのを聽くのである。
 溪や瀧の最もいゝのも同じく落葉のころである。水は最も痩せ、最も澄んでゐる。そしてそのひゞきの最もさやかに冴ゆる時である。

 捉へどころのない樣な裾野、高原などに漂うてゐる寂しさもまた忘れ難い。
 富士の裾野と普通呼ばれてゐるのは富士の眞南の廣野のことである。土地では大野原と云つてゐる。見渡す限り、いち
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