あるも妨げず、澄みたるは更によく、匂ひあるも無きも、手ざはり荒きも軟かきも、すべてこの大地の底から湧いて來る温かい泉こそはなつかしいものである。其處に靜かに浸つてゐると、そゞろに大地のこころに抱かれてゞもゐる樣な心やすさが感ぜられる。
十月十五日、私は白骨《しらほね》温泉の宿屋の作男を案内として先づ燒嶽のツイ麓に在る上高地温泉に向うた。行程四里、道は多く太古からの原始林の中を通じてゐた。そして其廣大な密林を通り過ぎると、大正三年燒嶽の大噴火の名殘だといふ荒涼たる山海嘯《やまつなみ》の跡があり、再びまた寂び果てた森なかを歩いてやがて上高地温泉に着いた。一軒建の温泉宿はその森のはづれに、山の上とは思はれぬ大きな川を前にしてひつそりと建つてゐた。川は梓川である。
上高地温泉といへば日本アルプスの名と共に殆んど一般的に聞えた所であるが、アルプス登山期が七月中旬から八月中旬に限られてある樣に、その時期を過ぐれば此處もほんの山上の一軒家になり終るのである。況して私どもの辿りついた十月なかばといふには無論のこと一人の客もなく、家には玄關からして一杯に落葉松《からまつ》の松毬《まつかさ》が積み込ま
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