樹木とその葉
火山をめぐる温泉
若山牧水

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蕎麥屋《そばや》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)信州|白骨《しらほね》温泉

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)まざ/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 信州|白骨《しらほね》温泉は乘鞍嶽北側の中腹、海拔五千尺ほどの處に在る。温泉宿が四軒、蕎麥屋《そばや》が二軒、荒物屋が一軒、合せて七軒だけでその山上の一部落をなしてをるのである。郵便物はその麓に當る島々村から八里の山路を登つて一日がかりで運ばるゝのである。急峻な山の傾斜の中どころに位置して、四邊をば深い森が圍んでゐる。溪川の烈しい音は聞えるが、姿は見えない。
 胃腸病によく利くといふので友だちに勸められ、私は其處に一月近く滯在してゐた。九月の中ごろからであつた。元來この温泉は信州といつても重に上下の兩伊那郡及び木曾路一帶、美濃の一部にかけての百姓たちがその養蠶あがりの疲勞をいやすために大勢して登つて來るので賑ふ湯ださうで、八月末から九月初めにかけては時とするとその四軒の宿屋に七八百人の客が押しかける事があるといふ。私の行つた時はほぼその時期を過ぎてもゐたし、丁度蠶の出來が惡くて百姓たちも幾らか遠慮したと見え、それほどの賑ひを見ずにすんだ。白骨に行けばその年の蠶の出來榮が判るとまで謂はれてゐるのださうである。然し、行つた初めには私の宿屋にだけでも二百ほどの客が來てゐた。が、彼等は蠶が濟んで一休みすると直ぐまた稻の收穫にかゝらねばならぬので、永滞在は出來ない。五日か七日、精々二週間もゐれば歸つてゆく。初め意外な人數と賑ひとを見て驚いた私の眼にはやがて毎日々々五人十人づつ打ち連れて宿の門口から續いてゐる嶮しい坂路を降りてゆく彼等の行列を見送ることになつた。そして私自身その宿屋に別るゝ頃にはそのがらんどうの宿屋に早や十人足らずの客しか殘つてゐなかつた。
 幾つか折れ込んだ山襞《やまひだ》の奧に當つてゐるので、場所の高いに似ず、殆んど眺望といふものがなかつた。唯、宿屋から七八町の坂を登つて、或る一つの尾根に立つと初めて打ち開けた四方の山野を見る事が出來た。竝び立つたとり/″\[#「とり/″\」は底本では「とり/\」]の山の中に、異樣な一つの山が眼につく。さほど高いといふでないが他とやゝ離れて孤立し、あらはに禿げた山肌は時に赤錆びて見え時に白茶けて見えた。そしてその頂上から、また山腹の窪みから絶えずほの白い煙を噴いてゐる。考ふるまでもなくそれは乘鞍嶽に隣つてゐる燒嶽である。
 私は前から火山といふものに心を惹《ひ》かれがちであつた。あらはに煙を上げてをるもよく、噴き絶えてたゞ山の頂きをのみ見せて居るも嬉しく、または夙うの昔に息をとゞめて靜かに水を堪へてをるその噴火口の跡を見るも好ましい。で、永滞在のつれ/″\に私は折があればその尾根に登つてこの燒嶽の煙を見ることを喜んだ。そしてどうかして一度その山の頂上まで登つて見たいと思ひ出した。が、もう其處に登るには時が遲れてゐて、宿屋の主人も番頭も私のこの申し出でに對して殆んど相手にならなかつた。止むなくそれをば斷念して、せめてその山の中腹を一巡し、中腹のところどころに在ると聞く二三の温泉にでも入つて來ようと思ひ立つた。
 私はまた温泉といふものをも愛してをる。同じ温度の湯でも、たゞの水を人の手で沸かしたものより、この地の底の何處からか湧いて來る自然の湯にいひ難い愛着を感ずるのである。色あるも妨げず、澄みたるは更によく、匂ひあるも無きも、手ざはり荒きも軟かきも、すべてこの大地の底から湧いて來る温かい泉こそはなつかしいものである。其處に靜かに浸つてゐると、そゞろに大地のこころに抱かれてゞもゐる樣な心やすさが感ぜられる。
 十月十五日、私は白骨《しらほね》温泉の宿屋の作男を案内として先づ燒嶽のツイ麓に在る上高地温泉に向うた。行程四里、道は多く太古からの原始林の中を通じてゐた。そして其廣大な密林を通り過ぎると、大正三年燒嶽の大噴火の名殘だといふ荒涼たる山海嘯《やまつなみ》の跡があり、再びまた寂び果てた森なかを歩いてやがて上高地温泉に着いた。一軒建の温泉宿はその森のはづれに、山の上とは思はれぬ大きな川を前にしてひつそりと建つてゐた。川は梓川である。
 上高地温泉といへば日本アルプスの名と共に殆んど一般的に聞えた所であるが、アルプス登山期が七月中旬から八月中旬に限られてある樣に、その時期を過ぐれば此處もほんの山上の一軒家になり終るのである。況して私どもの辿りついた十月なかばといふには無論のこと一人の客もなく、家には玄關からして一杯に落葉松《からまつ》の松毬《まつかさ》が積み込ま
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