樹木とその葉
地震日記
若山牧水

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)古宇《こう》村

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)隣村|立保《たちほ》といふ

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)あと※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しだ、

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)わざ/\
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 伊豆半島西海岸、古宇《こう》村、宿屋大谷屋の二階のことである。九月一日、正午。
 その日の晝食はいつもより少し早かつた。數日前支那旅行の歸りがけにわざ/\其處まで訪ねて來て呉れた地崎喜太郎君が上海からの土産物の極上ウヰスキイを二三杯食前に飮んだのがきいて、まだ膳も下げぬ室内に仰臥してうと/\と眠りかけてゐた。
 其處へぐら/\ツと來たのであつた。
 生來の地震嫌ひではあるが、何しろ半分眠つてゐたのではあるし、普通ありふれたもの位ゐにしか考へずに、初めは起上る事もしなかつた。ところが不圖《ふと》見ると廊下の角に當る柱が眼に見えて斜めになり、且つそれから直角に渡された雙方の横木がぐつと開いてゐるのに氣がついた。
 とおもふと私は横つ飛びに階子段の方へ飛び起きた。同時に階下の納戸《なんど》の方で内儀の
『二階の旦那!』
 と叫ぶ金切聲が耳に入つた。が、その時にはその人より私の方がよつぽど速く前の庭にとび出してゐた。
 すると、ゴウツ、といふ異樣な音響が四方の空に鳴り渡るのを聞いた。見れば目の前の小さな入江向うの崎の鼻が赤黒い土煙を擧げて海の中へ崩れ落つるところであつた。オヤオヤと見詰めてゐるとツイ眼下の、宿から隣家の醫師宅にかけて庭の塀下を通つてゐる道路が大きな龜裂を見せ、見る/\石垣が裂けて波の中へ壞れて行つた。
 これは異常な地震である、と漸く意識をとり返してゐるところへ、また次の震動が來た。地響とか山鳴とかいふべき氣味の惡いどよみが再び空の何處からか起つて來た。村人の擧ぐる叫びがそれに續いてその小さな入江の山蔭からわめき起つた。
 三度、四度と震動が續いた。そのうち隣家醫師宅の石塀の倒れ落つる音がした。それこれを見てゐるうちに先づ私の心を襲うたものはツイ眼下から押し廣まつて行つてゐる海であつた。海嘯《つなみ》であつた。
 不思議にも波はぴたりと凪いでゐた。その日は朝からの風で、道路下の石垣に寄する小波の音が斷えずぴたり/\と聞えてゐたのだが、耳を立てゝもしいんとしてゐる。そして海面一帶がかすかに泡だつた樣に見えて來た。驚いた事にはさうして音もなく泡だつてゐるうちに、ほんの二三分の間に、海面はぐつと高まつてゐるのであつた。約一個月の間見て暮した宿屋の前の海に五つ六つの岩が並び、滿潮の時にはそのうちの四つ五つは隱れても唯だ一つだけ必ず上部一二尺を水面から拔き出してゐる一つの岩があつたが、氣がつけばいつかそれまで水中に沒してゐる。
『此奴は危險だ!』
 私は周圍の人に注意した。そしてまさかの時にどういふ風に逃げるべきかと、家の背後から起つて居る山の形に眼を配つた。
 海の水はいつとなく濁つてゐた。そして向う一帶の入江にかけて滿々と滿ちてゐたが、やがて、「ざァつ」といふ音を立つると共に一二町ほどの長さの瀬を作つて引き始めた。ずつと濱の上の方に引きあげてあつた漁船もいつかその異常な滿潮にゆら/\と浮いてゐたのであつたが、急激な落ち潮に忽ち纜《ともづな》を斷たれて悠々と沖の方へ流れてゆく一つ二つが見えた。あれほど常《つね》平生《へいぜい》船を大事にする濱の人たちも、それを見ながら誰一人どうしようといふ者がなかつた。
 さうした景色を見ながら直ぐ心に來たのは沼津の留守宅の事であつた。四人の子供に、あの舊びはてた家屋、男手の少ないところでどうまごついてゐるであらうとおもふと、とてもぢつとしてゐられなかつた。この有樣では既に電報線のきく筈はないと思ひながらも、兎に角郵便局まで行つて見ようと尻を端折つた。數日前から階下の部屋に滯在してゐる群馬縣の社友生方吉次君も、
『一人では心細いでせう、私もゆきませう。』
 と同じく裾をまくしあげた。
 郵便局は古宇村から一つの崎の鼻を曲つた向うの隣村|立保《たちほ》といふに在るのであつた。その鼻に沿うて海沿ひにゆく道路はツイ先刻第一の震動と共に崩壞するのを眼前見てゐた。で、その崎山の峠を越えてゆく舊道があるといふことをフツと思ひ出して、それを越えてゆくことにした。
 古宇村は戸數六十戸ほどの、半農の漁村で、二つの崎山の間に一掴みに家が集つてゐるのである。その部落の間を通り拔けやうとすると、なんと敏速に逃げ出したことか、家といふ家がみな戸をあけすてたまゝ、屋内には早や一個の人影をも留めてゐなかつた。そしてずつと山の手寄りの田圃の間に一かたまりに集つて海面に見入つてゐるのが見えた。
 部落を通り拔けて舊道を登りにかゝると、其處には木立のたちこんだ間に、幾つかの龜裂の出來てゐるのが見えた。荒れ古びた小徑の草むらの中には先から先と大小の石塊が眞新しく轉げ落ちてゐた。とても徐歩する事が出來ず、小走りに走つてその山蔭の村立保へと降りて行つた。
 此處の龜裂は古宇より更にひどかつた。か細い女の身で大きな箪笥を横背負に背負ひ込んで山手の方へ青田中を急いでゐる者や、米俵を引つ擔いで走つてゐる若者などが入り亂れて見えてゐた。海岸の高みには老人たちが五六人額をあつめて遠くの海上を眺めてゐた。
 郵便局に行くと一人の老人を廣い庭の眞中に寢かして、二三人の若い女が手に/\傘を持つてその周圍に日を遮つてゐた。病人らしかつた。案の如く電報電話とも不通であつた。心休めに、若し通ずる樣になつたら早速これを頼みますと頼信紙を頼んでおいて、二人はまた山の舊道を越えた。
 古宇の村はづれにかゝると、土地の青年團の一人がわざ/\我々の方に歩いて來て、
『今夜は津浪が來るさうですから直ぐ彼處に行つてゝ下さい、村の者は皆行つてゐますから。』
 と山の方を指ざした。坐りもやらず群衆は其處に群つてゐる。
『難有《ありがた》う!』
 海岸に似合はない人氣のいゝ人情の純なこの村の氣風を、改めてこの紅顏の一青年に見出しながら私達は禮を言つて急いで宿に歸つた。
 宿でも評定《ひやうぢよう》が開かれてゐた。元來いま歸りがけに見て來たところでは村内全部が雨戸を閉ぢて山の方へ引上げてゐるので、まだ平常のまゝに戸をあけてゐるといふのはこの宿屋一軒きりであつたのだ。それを私は私たちに對する宿の遠慮からだとおもつた。で、いま途中で逢つて來た青年の勸告のことを告げて、一緒にこれから立ち退かうと申し出た。
『それがネ旦那』
 宿の婆さん――主人の母で七十近くの――が私の側に寄つて來た。そして安政二年にも地震と共に大津浪がやつて來て、この古宇村全帶を破壞し、洗ひ浚《さら》つて行つたことがある。その時に不思議にも此處一軒だけは地震にも崩れず、津浪にも浚はれず、人々に奇異の思ひをさせたのであつたが、もともとこの家は裏の山續きの岩を切り拓いてその上に建てたものであり、また僅かの事だが家の所在が一寸して崎の鼻の蔭に位置してゐるので津浪からも逃れたのであらうといふことになつてゐた。だから今度も大抵大丈夫であらうとおもふが、それとも旦那たちが氣味が惡ければ逃げませう、まアまア念のために飯をばいまうんと炊いてゐる處だといふのだ。
 しつかり者のこの老婆の言ふことをば何故だが其儘《そのまま》信用したかつた。そして若しもの事のあつた時の用意だけをしておいて山へ逃げるのを暫く見合はすことにした。
 それでも屋内に入つて居れなかつた。縁側に腰かけるか庭に立つか、斷えず搖つて來るのに氣を配りながらも海面からは眼が離せなかつた。
『や、壯快丸ぢやないかナ。』
 私は思はず大きな聲でさう言ひながら庭先へ出て行つた。遙かの沖に、唯だ一個の白點を置いた形で眼に映つた船があつた。其時どうしたものか見渡す沖には一艘の小舟も汽船も影を見せなかつた。其處へ白い浪をあげて走つて來るこの一艘が見え出したのだ。
『ア、ほんとだ、壯快だ/\、オーイ、壯快丸がけえつて來たよう。』
 宿の息子も誰にともない大きな聲をあげた。壯快丸とはこの古宇村の人の持船で、此處から他三四ヶ所の漁村を經て沼津へ毎日通つてゐる發動機船であるのだ。
『今日は直航でけえつて來たナ、どうだいあの浪は!』
 裸體のまゝの宿の亭主も出て來た。なるほどひどい浪である。舳にあがつてゐるその白浪のために、こちらに直面してゐる船の形は殆んど隱れてしまつてゐるのだ。
『ひでえ煙を出すぢアねヱか、まるで汽船とおんなじだ、全速力で走つてやがんナ。』
 いよ/\壯快丸だと解つた頃には山に逃げてゐた人たちもぞろ/\とその船着場ときめてある海岸に降りて來て集つた。私たちもその中に入つてゐた。船は全く前半身を浪の中に突き入れる樣にして速力を出してゐる。そして間もなく入江の中に入つて來た。
 船内には無論客も荷物もなく、丸裸體の船員だけが二三人浪に濡れて見えてゐた。
『どうだい、沼津は?』
『えれえもんだ、船着場んとこん土藏が二三軒ぶつ倒れた、狩野川がまるで津浪で船が繋いでおかれねえ。』
 まだ碇《いかり》をもおろさない船と陸の群衆との間には早や高聲の問答が始まつた。
 小舟で漕ぎつける人も出て來た。そして其處あたりから傳へられたらしく、今夜の十二時に氣をつけろ、でつけえ奴が搖つて來ると沼津の測候所でふれを出した、三島町は全滅で、山北では汽車が轉覆して何百人かの死人が出たさうだ、などと入江向うの新聞が異常な緊張を以て口から口に傳へられた。其處へ誰から渡されたとも氣のつかぬ手紙が私の手に渡された。大悟法利雄君の手である。胸を躍らせながら封を切つた。
[#ここから2字下げ]
ひどい地震でしたネ、先生大丈夫ですか。こちらは唯だ壁と屋根瓦が落ちたゞけで皆無事ですから御安心下さい。
引き續いて來た三つの大震動がいまやつと鎭まつたところ、先生が心配していらつしやるだらうと思ふので取敢へずこれだけを書いて船に驅けつけます。
[#ここで字下げ終わり]
 と簡單だが、これだけ讀んで私はほつとして安心した。そしてよくこそ取込んだ間にこれだけでも知らして呉れたと大悟法君に感謝し、船の人たちにも感謝した。
 いそ/\と宿へ歸らうとすると、其處の道ばたに一人の少年が坐つてゐる。見れば見知合の郵便配達夫で、顏色が眞蒼だ。
『どうした、おなかでも痛いか。』
 と訊くと、自分の頭を指ざす。
 幸ひその側に醫者の家があるので其處へ連れて行つた。
『ア、腦貧血ですよ、これは!』
 と言つたきり、藥の事をば何とも言はず、そゝくさと何處かへ出て行つた。お醫者樣ひどく惶てゝゐるのである。
 止むなく私は宿に少年を連れて歸つた。そして縁側に寢かし、仁丹など飮ませて靜かにさせながら、やがて訊いて見ると、これから二里ほど岬の方に離れて江梨といふ漁村がある、其處まで配達に行つて歸つて來る山の中で例の『ドシン!』に出合つたのださうだ。山の根に沿うた路のことで大小雜多な石ころが、がら/\と落ちて來る、人家はなし、走らうにも足がきかず、漸く此處まで出て來たらもう立つて居る事も出來なくなつたのださうだ。
 夕方まで寢てゐると、顏色も直つて、笑ひながら歸つて行つた。
『サテ、慓へてばかりゐても爲樣がない、一杯元氣をつけませうか。』
 さう言ひながら私は二階に酒の壜をとりに上つて行つた。そして、思はず立ち止りながら大きな聲で笑ひ出した。倒れも倒れたり、一升壜が三本麥酒壜が三本――これらは皆カラであつた――ウヰスキイ(一本はカラ)二本が、全部横倒しになつて部屋のそちこちに泳ぎ出して來てゐるのだ。時ならぬ笑聲に驚いて宿の亭主も上つて來た。そして一緒に笑ひ出した。
『一本取つて來ませう。』
『然し、店は戸をしめてましたよ。』
『なアに、こぢあけて取つて來ますよ。』
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