村はほんとにノンキであつた。果して一升壜を提げて、なほ罐詰をも持つて、人の子一人ゐない部落の方から亭主は歸つて來た。『先生、惜しいことをしましたよ。店では實のある奴が二三本ぶつ壞れて酒の津浪でしたよ。』
庭の一隅に板を並べ茣蓙《ござ》を敷き、其處を夕餉の席とした。生方君と今一人、二三日前から泊り合せてゐる眞田紐行商人の老爺との三人が半裸體になりながら冷酒のコツプを取つた。其處へ消防が來、青年團の人たちが見舞にやつて來た。その間にも、ヅシン、ヅシンと二三度搖つて來た。海は然し却つて不氣味な位ゐに凪いでゐた。そしてまた何といふ富士山の冴えた姿であつたらう。
雲一つない海上の大空にはかすかに夕燒のいろが漂うてゐた。そしてその奧には澄み切つた藍色がゆたかに滿ち渡つてゐる。其處へなほ一層の濃藍色でくつきりと浮き出てゐるのが富士山であるのだ。
『斯んな綺麗な富士をば近來見ませんでしたねヱ、何だか氣味の惡い位ゐに冴えてるぢアありませんか。』
暫くもそれから眼を離せない氣持で私は言つた。
やがて四邊《あたり》が暗くなつた。暮れた入江の丁度眞向う、山の端の空が、半圓形を描いてうす赤く染つて見えた。
『火事だナ、三島には遠いし、何處でせう。』
『小田原見當ですネ。』
『箱根の山でも噴火したではないでせうか。』
噴火ならば爆音がある筈である。火事とするととても小さなものではない。
『今夜の十二時に氣をつけろつてのは本當でせうか、どうしてさういふ事が解るでせう。』
『中央氣象臺からでも何か言って來たのでせう。』
『電報がきくか知ら。』
戸外に寢るには私は風邪が恐かつた。で、縁側に床を伸べて横になつた。ツイ鼻さきの前栽には鈴蟲が一疋、夜どほしよく徹る聲で鳴いてゐた。
夜警の人が折々中庭に入つて來た。
九月二日早朝、出澁る壯快丸を村中して促して沼津に向つた。乘船した人の過半は沼津の病院に病人を置いてゐる人たちであつた。
壯快丸から降りると私はすぐ俥を呼んだ。町中すべて道路に疊を敷いて坐つてゐた。一月ほど見なかつたこの町の眼前の光景が一層私には刺戟強く映つた。
『オ、今、お歸りですか。』
と聲をかくる知人もあつた。
香貫の自宅近くの田圃中の畦道には附近の百姓たちが一列に蓆を敷き、布團を敷いて集つてゐた。
私の姿を見るや否や、
『ア、けえつて來た/\。』
と誰となくさゝやく聲が聞えた。笑顏の二三人は立ち上つて頭をさげた。
門を入らうとすると、青い蚊帳が見えた。門から中門までの砂利の上、松や楓の木の間に三つ吊つてあるのだ。夜具が見え、ぬぎすてた着物が木の枝にかけてあつた。
『やア、とうさんだ/\、かアさアん、とうさんが歸つて來たよウ!』
忽ち湧き起る四人の子供たちの叫びが私を包んだ。
思ひがけぬ綿引蒼梧和尚の大きな圖體がのつそりと半吊りの蚊帳から表はれた。
『やア、君が來てゐたのか!』
『ウン、一昨日來てひどい目にあつたよ。』
『さうか、それはよかつた。』
星君も日疋君も出て來た。彼等の下宿してゐる龜谷さん一家が私の宅に逃げて來て一緒に蚊帳を並べたのださうだ。大悟法君は壁の落ちた玄關から出て來た。
臨時の炊事場が裏庭に出來てゐた。頬かむりの妻がほてつた顏をして其處から來た。
『ヤアとうさんだ/\、うれしいな/\。』
子供の叫びはなか/\に止まなかつた。
三日には雨が來た。しかも強い吹き降りであつた。うろたへて庭のものを取り込んでゐる一方では室内にぽと/\といふ雨漏りの音が聞え初めた。もと/\舊い家で、少し降りが強いと必ず漏るには漏つたが、それは場所がきまつてゐた。今度もツイその氣でゐると、座敷が漏る、茶の間が漏る、玄關、奧座敷、二階などは天井の板の目に列をつらねて落ちてゐる。噐具を片寄せる。疊をあげる。不圖《ふと》氣がついて一つの押入をあけて見ると其處の布團はぐつしよりだ。周章《うろた》へて他のをあけて見ると其處も同斷である。臺所、便所にまでポチ/\と音が聞えだした。僅かに離室とそれに隣つた湯殿とだけが無事だ。湯殿は早速物置になつた。
其處へ例の「風説」がやつて來た。今夜から土地の青年團が夜警をするから、庭の木戸など一切締めずに彼等の通行に自由ならしめて貰ひ度い、と達して來た。
『恐いなア、おとうさん、どうしませう。』
子供たちは眞實顏色を變へてゐる。
四日の夜なかであつた、たゞならぬ聲で私を呼ぶ者がある、一人ならぬ聲だ。三日の雨から庭に寢るのをよした代りに、雨戸はすべてあけ放つてあるので、早速私はその聲の方へ出て行つた。
見ると五六人の青年が一人の男の兩手をとり、肩を捉へて居る。呆氣にとられてよく見ると、捕へられてゐる男は古宇で別れて來た、生方君であつた。急に私の方に來たくなり、夜みちをしてやつて來る途中、青年團につかまつた。何處へゆく、斯ういふ人の所へ行く、嘘を言へ、何が嘘だ、が嵩《かう》じてたうとう此處まで引きずられて來たのださうだ。青年たちも生方君も汗ぐつしよりである。
二日、三日、四日と夢中で過して漸く落着きかけた五日の午後、私は三島町の塚田君を見舞はうと思ひ立つた。同君には沼津の稻玉醫院副院長時代、始終子供たちの身體を診《み》て貰つてゐた。三島に單獨に開業してまだ幾らもたゝぬにこの騷ぎで、しかもそちらは隨分ひどくやられたと聞いて前から氣になつてゐたのである。電車の運轉が止まつてゐるので、舊街道の埃道をてく/\と歩き始めた。
尻端折で歩くといふ事が不思議に私の心を靜かにしてくれた。と共に急にいろ/\な事が思ひ出されて來た。先づ東京横濱の知人たちの身の上である。
この三日あたりから今度の事變の範圍が漸く解りかけた。そして何より驚かされたのは東京横濱地方に於ける出來事であつた。殆んど信じ難い事であつたが、而かも刻々にその事實が確められて來た。次いで起つて來たのはさうした大事變の中に於ける我が知人たちの消息如何である。何處々々が燒失したと聞けば其處に住んで居る誰彼の名が、顏が、直ぐ心に浮んだ。死傷何萬人と聞けばどうしてもその中に二人や三人は入つてゐなければならぬ樣な氣がしてならぬのである。丸ビルの八階はどうだ、六階はどうだつたらう、窓から飛んで二百人死んだといふではないか、通新石町の土藏はこれは最も危險だ、女の身でどうして逃げられたらう、身一つならばだが親を連れてはどんなに難儀したであらう、とそれからそれと想像が走る。しかも明るい方へは行かないでどうしても暗い方へ/\とのみ走りたがるのだ。先月伊豆に訪ねて來て呉れた時、今から思へばいつもほど元氣がなかつた、蟲が知らしてお別れに來たのではなかつたか、などと全く愚にもつかぬ事まで氣になつて來る。
便所に行つた時、枕についた時、僅かの隙を狙つては起つて來る此等の懸念や想像が、いま斯うして獨りで歩いてゐると恰も出口を見付けた水の樣に汪然として心の中に流れ始めたのだ。果ては歩調も速くなつて、汗をかきながら急いでゐたが、黄瀬川の橋にかゝつた時、私は歩くのをよして其處の欄干に身を凭《よ》せかけた。そして汗を拭き帽子をとつてその熱苦しい想像邪念を追拂はうと努めた。
が、それは徒勞であつたばかりでなく、却つて一種の焦燥をさへ加へた。焦燥はやがて一つの決心を私に與へた。
『よし、行つて來よう、行つて見て來よう!』
さう思ひ立つともう大抵無事だと解つてゐる三島の方へなど行つてはゐられなかつた。三島はあと※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しだ、と思ひ捨てながらとつとゝ踵をかへして歩き始めた。
家に歸つてから妻との間にいろ/\の問答や相談が繰返された。入京の非常に難儀なこと、私自身の健康のこと、旅費のこと、それからそれと頭の痛くなるほど繰返されてゐるところへ、ひよつこり庭先へ服部純雄さんがやつて來た。彼は昨日岡山から職員總代、學生總代其他と三人の人を連れて、
『君たちを掘り出すつもりでやつて來たのだが、まア/\噂《うはさ》の樣でなくてよかつた。』
と、言ひながら、その明るい笑顏を見せたのであつた。關西地方では最初沼津地方激震死傷數千云々といふ風に傳へられ、それに驚いて飛んで來たのであつたさうだ。その服部さんが勇しい扮裝を見せながら、『とても君危險で箱根から向うには行けないさうだ、此處まで來たついでに東京まで行つてやらうといま町でいろ/\用意をしたんだが……』
と、その種々の危險を物語つた。
『それではあなたにも到底駄目ですネ。』
と諦め顏に細君が私を見た。
そして、その日の夕方、代りに大悟法君が萬難を冒して出かくるといふことに事は急變したのであつた。
明けて六日の午前中、大悟法君と二人沼津中を馳け※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて用意を整へ、正午、折柄安否を氣遣つて伊豆から渡つて來て呉れた高島富峯君と共に大悟法君の悲壯な出立を沼津驛に見送つたのであつた。
箱根を越え、御殿場を越えて逃げて來た所謂《いはゆる》罹災民の悲慘な姿で沼津驛前あたりが一種の修羅場化してゐる話をば人づてに聞いてゐたが、私が直接にさうした人を見たのはその六日の夕方、自宅の庭に於てゞあつた。
玄關に立つてゐる異樣ないでたちの青年に見覺えはあつたが、直ぐには思ひ出せなかつた。名乘られて見ればそれは三年ほど前に、當時長野市にゐた紫山武矩君方で逢つた同君の末弟四郎君であつた。
『ア、さうでしたネ、さアお上んなさい。』
『まだ二人ほど連れがあるんですが……』
『どうぞ、お呼びなさい。』
一人は四郎君のすぐ上の兄さんで早稻田大學、一人はその友人で農科大學の學生だと解つたが、三人とも古びた半纒《はんてん》を引つかけたまゝで下はから脛の、見るからに變な樣子であつた。
『アツ!』
私は初めて氣がついた、彼等はすべて小田原の人であつたのだ。それで、この異樣な樣子が呑み込めると同時に口早やに問ひ掛けた。
『君等はやられたのですね、どうでした、小田原は?』
『すつかりやられました、身體一つで燒出されました……』
漸く私は彼等を座敷に招じた。聞けば彼等は三人共各學校柔道の選手で、九月一日には小田原小學校で始業式の濟んだあとが柔道大會となり、彼等は全て柔道着か裸體かになつて式場(雨天體操場などであつたらうと思ふ)に出てゐた。ドツと來ると共に學校は潰《つぶ》れてしまつた。幸ひ彼等のゐた場所は場内の中央であつたゝめ、落ちた屋根も其處だけは多少の空隙を殘してゐて壓死をば免れたが、まん中どころ以外に並んで見物してゐた幼い生徒たちは殆んど全部ひしやがれてしまつた。そのうち小使部屋から火が出た。何處をどう掻き破つて出たのだか兎に角に三人とも素裸體で、諸所に擦傷を負ひながらもつぶれた屋根の下から這ひ出す事が出來た。出て見ると町にはすつかり火が※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてゐたさうだ。其處へ津浪が寄せ、やがて凄じい龍卷が起つて紙片の樣に人間其他を空中に卷きあげた。
『何しろ町中全部が燒けたものですから食物が無いのです、救助米が多少※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてるのですけれど、如何してだか東京方面を主にして小田原などにはほんの申譯ばかりにしかよこさないのです、で、米を少し持つてゆかうとこれから鈴川の親戚まで行くところです。』
と一人が言ふと、一人は笑ひながら着てゐる半纒を引つぱつて、
『裸體ではしやうがないものですから、途中の親戚で道了講の宿屋をしてゐる家に寄つてこれを三枚貰つて來たのです。』
私は今朝小田原から山を越えて來たといふ三人に強ひて足を洗はせて、今夜此處に泊る事にさせた。そしてようこそ此處に私の住んでゐる事を思ひ出して呉れたと想つた。
酒を取りにやつた女中が歸つて來たらしく、勝手の方で時ならぬ笑ひ聲がするので行つて訊いて見ると、近所の者が酒屋に集つて、
『いま若山さんところに不逞鮮人が三人入つて行つたが、どういふ事になるだらう。』
と騷いでゐたといふのだ。なるほどさう言はれゝば三人共髮の長い、眼のぎよろりとした、背の痩高い連中で
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