村はほんとにノンキであつた。果して一升壜を提げて、なほ罐詰をも持つて、人の子一人ゐない部落の方から亭主は歸つて來た。『先生、惜しいことをしましたよ。店では實のある奴が二三本ぶつ壞れて酒の津浪でしたよ。』
 庭の一隅に板を並べ茣蓙《ござ》を敷き、其處を夕餉の席とした。生方君と今一人、二三日前から泊り合せてゐる眞田紐行商人の老爺との三人が半裸體になりながら冷酒のコツプを取つた。其處へ消防が來、青年團の人たちが見舞にやつて來た。その間にも、ヅシン、ヅシンと二三度搖つて來た。海は然し却つて不氣味な位ゐに凪いでゐた。そしてまた何といふ富士山の冴えた姿であつたらう。
 雲一つない海上の大空にはかすかに夕燒のいろが漂うてゐた。そしてその奧には澄み切つた藍色がゆたかに滿ち渡つてゐる。其處へなほ一層の濃藍色でくつきりと浮き出てゐるのが富士山であるのだ。
『斯んな綺麗な富士をば近來見ませんでしたねヱ、何だか氣味の惡い位ゐに冴えてるぢアありませんか。』
 暫くもそれから眼を離せない氣持で私は言つた。
 やがて四邊《あたり》が暗くなつた。暮れた入江の丁度眞向う、山の端の空が、半圓形を描いてうす赤く染つて見
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