樹木とその葉
伊豆西海岸の湯
若山牧水
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)土肥《とひ》温泉
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ゆらり/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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東京にてM――兄。
伊豆の東海岸には御承知の通り澤山温泉があるけれど、西海岸には二個所しかありません。一つはずつと下田寄りの賀茂温泉、一つはいま私の來てゐる土肥《とひ》温泉です。此處には沼津から汽船、二時間足らずで來られます。賀茂にはまだ行つて見ません。至つて開けぬ所ださうで、湯の量は非常に多く、浴用よりそれを使つて野菜の促成栽培をやつてゐるとか聞きました。
土肥も似たものですけれど賀茂よりましでせう。旅館も七八軒ありますし、村の人家も相當に寄つてゐます。いゝのは冬暖く夏海水浴の出來ることで、困るのは交通の不便です。ことに、この冬季、十二月から二、三月にかけては誠に西風が立ち易く、それが立つと汽船が止り、汽船が止ると殆んど交通杜絶です。船原越修善寺越といふ二つの山道がありますが、餘程脚の達者な者でないと歩けない難道です。一は四里程で船原温泉に出、一は六里程で修善寺温泉に越ゆるのです。二日も三日も汽船が出ないとなると爲方《しかた》がなしに人足を雇つてはその峠へかゝつてゆく女連《をんなづれ》子供連《こどもづれ》の客が見かけられます。
私はこの五六年、毎年正月元日に此處にやつて來てゐます。朝暗いうちに自宅で屠蘇《とそ》を祝つて、五時沼津の狩野川河口を出る汽船に乘るのです。幸ひと今迄この元日には船が止りませんでした。然し毎年相當に荒れました。私は船に強いので、平氣で甲板に出て荒浪の中をゆく自分の小さな汽船の搖れざまを見てゐます。晴れゝば背後に聳えた富士をその白浪のうへに仰ぐことになります。河口を出て靜浦江の浦の入江の口を横切り大瀬崎の端へかゝると船は切りそいだ樣な斷崖の下に沿うてゆくことになります。十丈二十丈の高さの斷崖の頭の方は篠笹の原か茅《かや》の野になつて居り、その下は殆んど直角に切り落ちて露出した岩の壁です。冬のことで、篠笹原はうすい緑の柔かなふくらみを持つて廣がつて居り、枯茅の野は鮮かな代赭色《たいしやいろ》に染つてゐます。そして岩壁は多くうす赤い物々しい色をして聳えてゐます。
その眞下に立つ浪の中をゆらり/\と搖れてゆく小さな汽船の姿を想像してごらんなさい。
正月ごとに私の此處に來ますのは、一つはその時に押懸けて來る所謂《いはゆる》年始客から逃るゝためでもあるのですが、本統はその頃此處に來てゐますと梅の花の咲き始めを見ることが出來るからです。
年の寒さで多少の遲速はある樣ですが、先づ一月の十日には咲き出します。元日に來て既に庭に咲いてゐるのを見て驚いたこともあります。また、この土地にはこの木が非常に多い。一寸出ても家の垣根とか田圃の畔とか、かすかな傾斜を帶びた山の枯草原などに白々と咲いてゐるのが目につきます。或る古い寺があり、其處の竹藪の中にも咲いてゐます。
梅の花はなか/\散らないもので、あとの方になるといかにも佗しい褪《あ》せざまを見せて來ます。山櫻の花などとは其處はすつかり違つてゐます。が、その咲き始める時はまことにいゝ。一りん二りん僅かに枝に見えそめた時の心持は全くありがたいものです。毎年のことですが、心がときめきます。
梅の花と共にこのころ此處に來て眼につくのは橙です。また、夏蜜柑です。これも一軒の家には必ず二三本のその木があり、橙は赤く、夏蜜柑は黄いろく、いづれもぎつちりとあの厚い葉の茂つた木になりさがつてゐるのが見えます。
この果物の熟れてゐる色はいかにも明るい感じのするもので、一寸散歩しても右に左に見えて居るこの色がさながらにこの土肥温泉の色彩の樣な氣がするのです。
何處の温泉場でも何か土地に相應した樣なものを考案して土産物として賣つてゐますが、土肥では先づ枇杷羊羹でせう。つまり土地に枇杷が多いのです。蜜柑と同じく、ずつと高くまで段々畑が作られてこれが植ゑてあります。正月は褪せながらもまだこの木の寂しい花が葉がくれに見えてゐます。そしてそれに寄り集《つど》うた眼白鳥《めじろ》が非常に多い。
羽根の青い、眼の縁の白い、親指ほどもないこの小さな鳥は暗い樣な枇杷の木の茂みに幾羽となく入り籠つてちい/\と啼いてゐます。花の蜜に寄るものと見えます。そして、時々この小鳥の群がその枇杷の木を離れて附近の山の櫟林に入り込んでゐるのを見ます。櫟はまた梅が咲くといふのにも枯葉を落さないで、から/\に乾いたまゝの鮮かな色をして山の傾斜に立ち竝んでゐます。
土肥は斯うした櫟林や、蜜柑畑や、枇杷の畑のある小山を北から東にかけて背負うて、西また南に
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