海を受けた僅かの平地の土地なのです。
 もう一つ土肥の土産物に小土肥海苔《をどひのり》、八木澤海苔《やぎさはのり》といふのがあります。小土肥は西に、八木澤は東に、共にこの土肥から二十町ほどを距てた漁村ですが、其處で取れる海苔をそれ/″\に斯う呼ぶのです。淺草海苔などの樣に粗朶《そだ》に留つたものを取るのでなく、荒浪の打ち寄せる磯の大きな岩の肌に着いた海苔を板片などで搖き取つて乾すものです。ですから風味もずつと違ひます。私などどちらかといふとこの荒磯の味を好む者ですが、惜しいかな製法が未熟なため、ともすると中に貝殼のかけらや砂の屑などが入つてゐます。中で小土肥海苔の方は其處の岩が滑かなため、八木澤のよりややその混入物が少ないといふことになつてゐます。

 西南に海を控へ北と東に山を負うて僅かな平地を持つた土地と先に言ひましたが、その僅かな平地は一つの小さな流に沿うてやゝ深く東の方へ切れ込んでゐます。そしてその平地の兩側は例の雜木の山、果物畑の山となつてゐるのです。
 もう少し私はこの雜木林の山のことをお話したい。一體、君は雜木林といふものがお好きでしたか知ら。
 櫟林とだけ言ひましたが、單にそれだけではありません。いろ/\の樹木がその日向に向いた山に生えてゐます。先づ竹の林が眼につきます。杉の木立の、冬の日にうす赤く錆びてゐるのが見えます。何の木だか、竹箒の樣にその落葉した枝や梢をこま/″\と張りひろげて立つてゐるのがあります。楠かタブの木か、みつちりと黒く茂つた若木もその間に立ち混つてゐます。
 斜め上りになつてゐる澤の奥のつめの所に一竝び細く杉の木立の立ち續いてゐるのはいかにも靜けく明るく眺められます。またすぐその下に續いて寧ろ淡黄色をした竹の林がこまかな葉を日光に晒して立つてゐるのもいかにも柔かな眺めです。それからは例の櫟の林、名もない木立の冬枯、やがて枇杷の畑、蜜柑の畑。
 すべてが明るく、すべてが柔かく、すべてが暖かです。そしてすべて其處におちついて眺められます。大きくはないが、まつたく靜かです。

 湯は海岸寄りの中濱といふのと、山の窪地に沿うて五六町入り込んだ奥の番場といふ二部落に湧いてゐます。私は毎年その中濱の方のこの宿に來てゐますが、ツイ裏が山の根がたとなつてゐて海にも近く、湧く湯の量も甚だ豐かです。
 弱鹽類泉とかいふのださうで、無色無臭、實によく澄んでゐます。この宿には湯が二個所に湧き、而かもその五六分通りは捨ててしまはねば熱くて入り得ぬといふ有樣です。ですから少し浴場を作り變へたら所謂千人風呂位ゐ直ぐ出來るでせう。
 正月の三ヶ日あたりは流石《さすが》にこみます。今年は地震のあとで例年の樣なことはあるまいと思つてゐると、もう三十日あたりから滿員になつたとの事でした。客は學生が多く、次に老人です。何しろ來る道中が道中だものだから、身體の弱い人、氣の弱い人、または時間にきびしい制限のある人たちには一寸出かけて來られないのです。
 その正月の混雜は先づ四五日に半減され、七日か八日に及んで更に半減されます。そしてそれから後は次第に平常の靜けさに歸ります。今年も十二三日になるとこの大きな宿に僅か五六人の客がゐるだけでした。それも論文を書く學生とか少々リウマチの氣のあるといふ老人とかですから靜かなものです。
 たゞ困るのは女中の不馴なことゝ粗野なことですが、聞けば正月とか暑中とかの書入時には近所の民家の娘たちを雇ひ入れるので、客や帳場で小言でも言へばどん/\歸つてゆくとかで、致しかたのない話です。で、私はこの一二年をば半自炊の氣でやつてゐます。即ち炭から水から茶道具酒道具寢道具を一切自分の部屋にとり寄せておいて隨時自分の氣の向いた時に飮んだり寢たりするのです。至つて成績がよろしい。
 單に女中に限らず、帳場そのものからほゞそれに近いものなのです。不自由と云へば不自由、親しみの眼で見れば却つてなまなかに開けた温泉よりいゝ氣持です。

 二つある湯殿の一つにはよく日が當ります。六疊敷ほどの湯槽《ゆぶね》が三つに爲切《しき》つてあり、その一つの隅にぼんやりと一人入つてゐますと、ツイ側に落ちてゐる湯口の音のみ冴えて、いつ知らずうと/\としたくなる靜けさです。眼の前の湯の中に動いてゐる微塵《みぢん》に似た湯垢の一つ/\にはかすかに虹の樣な日光の影が宿り、湯槽の縁から溢れ出る湯は同じくほがらかに日が當つて乾き切つてゐる流し場の一端に細い小波をたてゝ流れて行つてゐます。
 湯槽からあがつてその流の中に横たはりますと、身體半分は温浴、半分は日光浴が出來るといふ有樣です。

 西風が立つたとなればあはれです。
 眞正面から打ちつけて來る怒濤の響がまつたく一人でゐる時など、戸障子を搖するかと聞ゆる時があります。
 二日續き、三日續くとな
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