樹木とその葉
駿河灣一帶の風光
若山牧水

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)駿河灣《するがわん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)松原|龍華寺《りゆうげじ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)薩※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51]峠

/\:ばら/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 駿河灣《するがわん》一帶の風光といふとどうしても富士山がその焦點になる。久能山より仰ぐ富士、三保の松原|龍華寺《りゆうげじ》の富士、薩※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51]峠《さつたたうげ》の富士、田子の浦の富士、千本松原の富士、牛臥から靜浦江の浦にかけての富士など説明を付けるのがいやになる位ゐもう一般的に聞えた名勝となつてゐる。名物にうまいものなしの反對で、以上とり/″\にみな見られる景色であるだけに却つて筆の執りにくいおもひもするのである。
 なかで私の一番好きなのは田子の浦の富士である。田子の浦といふと何となく優美な――例へば和歌の浦とか須磨の浦とかいふ風の小綺麗な海濱を豫想しがちであるが、事實はひどく違ふ。意外な廣さ大きさを持つた砂丘の原であるのである。
 九十九里が濱の荒涼は無いが、東海道沿ひの松並木から續いて、ばらばら松の丘となり、やがて草も木もない白茶けた砂丘となり、ところどころにうねりを起しながらおほらかな傾斜をなした大きな濱となつてゐるのである。濱の廣さは、ばら/\松の丘から浪打際まで六七町から十町あまりあるであらう。西はすぐ富士川の河口となり、東はずつと弓なりに四里近くも打ち續いた松原となつて居る。松原の東のはずれには狩野川の河口があり、河口に近く沼津の千本濱があるのである。
 薩※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51]峠などを含む由比蒲原あたりの裏の山脈は富士川の西岸で盡き東の岸からは浮島が原の平野となつてずつと遠く箱根山脈の麓まで及んで居る。その平野の東寄りの奧に愛鷹山《あしたかやま》がある。沼津あたりからはこの山が丁度富士の前に立ちはだかつて見えるのであるが、田子の浦から見るのだと、恰かも富士の裾野の東のはづれに寄つてしまつて、殆んど富士の全景に關係がなくなつてゐる。つまり廣大な裾野の西のはづれから東のはづれを前景にして次第に高く鋭く聳えて行つた富士山の全體が仰がるるわけである。
 富士山は何處から見ても正面した形で仰がるゝ山であるが、わけてもこの田子の浦からは近く大きく眞正面に仰がるゝ思ひがする。豐かに大地に根ざして中ぞら高く聳えて行つた白麗朗のこの山が恰も自分自身の頭上へ臨んでゐるかの樣な親しさで仰がるゝのである。何の技巧裝飾を加えぬ、創造そのまゝの富士山を見る崇嚴を覺ゆるのである。繪でなく彫刻でなく、また蒔繪や陶器の模樣でない山そのものの富士山を仰ぐことが出來るのである。
 人影とても見當らぬ砂丘の廣みのまんなかに立つて、ぢいつとこの山を仰いでゐると、そゞろに遠い昔の我等の祖先の一人が此處を通りかゝつて詠み出でたといふ古い歌を思ひ出さざるを得ない。
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天地の分れし時ゆ、神さびて高く貫き、駿河なる富士の高嶺を、天の原振りさけ見れば、渡る日の影も隱ろひ、照る月の光も見えず、白雲もいゆき憚り、時じくぞ雪は降りける、語りつぎ言ひつぎ行かむ、富士の高嶺は、
田子の浦ゆうち出でて見れば眞白くぞ富士の高嶺に雪は降りける
[#ここで字下げ終わり]
 この歌の時代には四邊《あたり》に人家もなく田畑もなく、恐らくたゞうち續いた原野か森林であつたらうとおもふと、砂丘のはづれで響いてゐる浪の音など一層身にしみて聞きなされる。
 三保あたりから見るのも惡くはないが、入江だの丘陵だのといふ前景が付いて却つて富士山を小美しく小さなものにしてゐる。ともすれば模樣繪の富士山にしてしまふ恐れがあるのである。
 前景のあるを嫌ふと言つた。もう一ヶ所前景なしに富士山を見るに恰好な場所がある。それは御殿場の南に當る乙女峠である。御殿場から箱根の仙石原や蘆の湖方面に越ゆる峠で、御殿場驛から二里あまりもあらうか。
 其處で見た富士山の事をば私は曾て書いておいた。それを此處に引く。仙石原から御殿場へ越えた時の事である。
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登りは甚だ嶮しかつたが、思つたよりずつと近く峠に出た。乙女峠の富士といふ言葉は久しく私の耳に馴れてゐた。其處の富士を見なくてはまだ富士を語るに足らぬとすら言はれてゐた。その乙女峠の富士をいま漸く眼のあたりに見つめて私は峠に立つたのである。眉と眉とを接するおもひにひた/\と見上げて立つ事が出來たのである。まことに
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