どういふ言葉を用ゐてこのおほらかに高く、清らかに美しく、天地にたゞ獨り聳えて四方の山河を統《す》ぶるに似た偉大な山嶽を讚めたゝふることが出來るであらう。私は暫く峠の路の眞中に立ちはだかつたまゝ靜かに空に輝いてゐる大きな山の峯から麓を、麓から峯を見詰めて立つてゐた。(中略)
乙女峠の富士は普通いふ富士の美しさの、山の半ば以上を仰いでいふのと違つてゐるのを私は感じた。白妙に雪を被つた山巓《さんてん》も無論いゝ。が、この峠から見る富士は寧ろ山の麓、即ち富士の裾野全帶を下に置いての山の美しさであると思つた。かすかに地上から起つたこの大きな山の輪郭の一線はそれこそ一絲亂れぬ靜かな傾斜を引いて徐ろに天に及び、其處に清らかな山巓の一點を置いて、更にまた美しいなだれを見せながら一方の地上に降りて來てゐるのである。地に起り、天に及び、更に地に降る、その間一毫の掩ふ所なく天地の間に聳えて居るのである。しかもその山の前面一帶に擴がつた裾野の大きさはまたどうであらう。東に雁坂峠足柄山があり西に十里木から愛鷹山の界があり、その間に抱く曠野の廣さは正に十里、十數里四方にも及んでゐるであらう。なほしかもその廣大な原野は全體にかすかな傾斜を帶びて富士を背後におほらかに南面して押しくだつて來てゐるのである。その間に動く氣宇の爽大さはいよ/\背後の富士をしてその高さを擅ならしめてゐるのである。
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 幼い形容詞が多くお羞しい文章であるが、初めて乙女峠から富士を見た時は私はまつたくこの通りに感じたものであつた。此處の富士も田子の浦と同じく、その裾野を置くほかは何等の前景を持たぬ富士それ自身の眺めである。しかも山全體を一眸《いちぼう》の裡《うち》に收め得ること亦た同じい。たゞ一方は海岸であり、一方は山上であるの相違だ。

 乙女峠から眺めて十里四方にも及ぶであらうと言つた曠野は大野原と呼ばれてゐる。その大野原の奧、富士の根がたまで秋に一度初夏に一度私は出懸けて行つたことがある。その時々に詠んだ歌を此處に引いて其處から見た富士の説明に代へよう。
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富士が嶺や麓に來りあふぐ時いよよ親しき山にぞありける
富士が嶺の裾野の原のまひろきは言《こと》に出しかねつただに行き行く
富士が嶺に雲は寄れどもあなかしこ見てあるほどに薄らぎてゆく
日をひと日富士をまともに仰ぎ來てこよひを泊る野のなかの村
草の穗にとまりて啼くよ富士が嶺の裾野の原の夏の雲雀は
雲雀なく聲空に滿ちて富士が嶺に消殘《けのこ》る雪のあはれなるかな
張りわたす富士のなだれのなだらなる野原に散れる夏雲の影
夏雲はまろき環《わ》をなし富士が嶺をゆたかに卷きて眞白なるかも
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 以上、すべてその麓の近い處からのみ仰ぐ富士山を書いて來た。今度は少し離れた位置からの遠望を述べて見よう。富士は意外な遠國からも仰がれて、我知らず驚いた事が屡々あるが、此處には駿河灣一帶の風光の約束のもとに、さまでは離れぬ遠望を書くことにする。
 支那の言葉に、高山に登らざれば高山の高きを知らずといふのがあると聞いた。この言葉の眞實味をばよくあちらこちらの山登りをする時ごとに感じてゐたのであるが、伊豆の天城山《あまぎさん》に登つて富士を仰いだ時、將にそれを感じた。そしてそゞろに詠み出た歌がある。
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たか山に登り仰ぎ見高山の高き知るとふ言《こと》のよろしさ
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 初め私は絶頂近くにあるいふ噴火口あとの八丁池といふを見るがために天城登りを企てたのであつた。そしてせつせと登つてゐるうちに不圖《ふと》うしろを振返つて端なく自分の背後の空に、それこそ中天に浮ぶと云つた形でづばぬけて高く大きく聳えてゐる富士山を見出して、非常に驚いたのであつた。
 ツイ眼下には狩野川の流域である伊豆田方郡の平野があつた。それを取り圍む形でやゝ遠く左寄りに眞城《さなぎ》、達磨《だるま》[#「達磨」は底本では「達摩」]の山脈があり、近く右手に箱根連山があり、その中にも城山、寢釋迦山、鳶の巣山、徳倉山《とくらやま》等の低きが相交はり、ずつと遠くには駿河信濃國境に連亙した赤石山脈が眞白に雪を被つてつらなつてゐた。そして殆んど正面にこれも常よりは高く見ゆる愛鷹山が立ち、それの裾野の流れ落ちた所には駿河灣が輝いてゐた。それらの山や海を前景として、まつたく思ひがけない高い空に白々としてうち聳えてゐたのであつた。
 三保あたりからは前景がうるさくていやだと前に言つたが、この位ゐの大きな前景となると少しも惡くなかつた。前景の大きさが、いよいよ富士の大きさを増した樣にも見えた。これもその時詠んだ數首の歌を引いて當時の自分の驚嘆を現はさうと思ふ。
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わが登る天城の山のう
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