しろなる富士の高きはあふぎ見飽かぬ
山川に湧ける霞の昇りなづみ敷きたなびけば富士は晴れたり
まがなしき春のかすみに富士が嶺の峯なる雪はいよよ輝く
富士が嶺の裾野に立てる低山の愛鷹山はかすみこもらふ
愛鷹の裾曲《すそみ》の濱のはるけきに寄る浪白し天城嶺ゆ見れば
伊豆の國と駿河の國のあひにある入江の眞なか漕げる舟見ゆ
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 野や濱や山の上から見た富士山のみを書いて來た。海から見るそれをひとつ書いて見よう。
 狩野川の河口、即ち沼津の町から出て伊豆の西海岸の諸港を經、その半島の尖端に在る下田港まで行く汽船がある。この汽船の甲板に立つてゐたならば、そしてその日がよく晴れてゐたならば、殆んど到る所の海上からこの靈山が仰がるゝのである。海と空との間に唯一つ打ち聳えたこの山の姿の靜けさは麓に立つて仰ぐのと自づからまた別である。ことに富士のよく晴れる季節の秋から冬にかけてはこの伊豆西海岸には殆んど毎日西風が吹くために、紺碧な海上いちめんに白浪が泡立つてゐて一層の偉觀を添へる。またこの海岸線は斷崖絶壁といつた風のところが多く、どうかするとその斷崖の眞上に、またはその中腹に半ば隱れて見えたりすることがある。

 サテ、富士の事ばかり書いて來た樣である。そのほかで附近の案内を書くとすると先づ江の浦附近の入江であらうか。
 これは全く模型的な入江だといふ氣のする處である。伊豆の大瀬崎と、狩野川々口以東の海岸の圍み合ふ入江は二三里ほどの奥まりを持つて居る。その入口に駿河路では牛臥靜浦があり伊豆路では西浦内浦があり、一番奥が即ち江の浦となつてゐるのである。一帶に非常に深い海で、江の浦の岸邊でも底の見えぬ青みを湛へて居る。海岸は曲折に富み、道路はその崎に沿ふことをせず、多く隧道を穿つて通じてゐるほどだ。海に臨んだ小山には多く松が茂り、小波もない深みの上に靜かに影を投げて居る。
 江の浦は遠州灘駿河灣伊豆七島あたりへ出かくる鰹船の餌料を求めに寄るところで、小松の茂つた崎の蔭の深みには幾箇所となく大きな自然の生簀《いけす》が作られ、其處に無數の鰯《いわし》が飼はれて居る。で、普通の漁師町以上に整つた宿場をなしてゐるのであるけれど、いゝ宿屋が無い。江の浦から曲りくねつた海岸ぞひの路を更に一里半行くと三津《みと》といふ船着場があるが、其處は料理屋兼業其他の三四の宿屋があり、小さくはあるが洋式の三津ホテルといふもある。三津のまん前には淡島《あはしま》といふ小さな尖つた島があつて、その島のなゝめ横に例の富士山が海を前にして仰がるゝ。其處より背後の岡を越えて一里歩くと長岡温泉がある。三津に斯うした土地不似合の料理屋宿屋のあるのは單に景色がいゝといふばかりでなく、一つはこの長岡温泉があるためである。
 この三津まで、沼津の御成橋の下から午前午後の二囘乘合の發動機船が出る。狩野川の川口を出るとすぐ左折して蠶の這つた樣な牛臥山を左に、靜浦の御用邸附近の深い松原を見て江の浦に入り、附近の山蔭に介在してゐる小さな舟着場二三箇所に寄つて三津で終るのである。航程約一時間半、舟賃二十五錢、最も簡易な入江見物が出來るわけである。
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冬田中あらはに白き道ゆけばゆくての濱にあがる浪見ゆ(五首静浦附近)
田につづく濱松原のまばらなる松のならびは冬さびて見ゆ
桃畑を庭としつづく海人《あま》が村冬枯れはてて浪ただきこゆ
門ごとにだいだい熟れし海人が家の背戸にましろき冬の浪かな
冬さびし靜浦の濱にうち出でて仰げる富士は眞白妙なり
うねり合ふ浪相打てる冬の日の入江のうへの富士の高山(二首静浦より三津へ)
浪の穗や音に出でつつ冬の海のうねりに乘りて散りて眞白き
舟ひとつありて漕ぐ見ゆ松山のこなたの入江藍の深きに(四首江の浦)
奥ひろき入江に寄する夕潮はながれさびしき瀬をなせるなり
大船の蔭にならびてとまりせる小舟小舟に夕げむり立つ
砂の上にならび靜けき冬の濱の釣舟どちは寂びて眞白き
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 富士川の鐵橋を過ぎて岩淵蒲原由比の海岸、興津の清見寺、さらに江尻から降りて三保の松原に到るあたりのことを書くべきであらうが、蒲原由比は東海道線を通るひとの誰人もがよく知つてゐる處であらうし、三保にもさほど私は興味を持たぬ。海も松原も割合に淺くきたなく、唯だ羽衣の傳説と三保と呼ぶ名稱の持つ優美感とが一つの美しい幻影を作りなしてゐる傾きが無いではない。
 松原ならば私は沼津の千本松原をとる。公園になつてゐるあたりはつまらないが、其處を少し離れて西へ入ると實にいゝ松原となつてゐる。樹がみな古く、且つ磯馴松《そなれまつ》と見えぬ眞直ぐな幹を持ち、一樣に茂つた三四町の廣さを保つてずつと西三里あまり打ち續いて田子の浦に終つてゐるのである。海岸の松原としては全く珍
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