かぬ、追つ附け娘たちが麓から登つて來るからそしたら直ぐ行つて問合せませう、まア旦那はそれまで其處らに御參詣をなさつてゐたらいいだらうといふ思ひがけない深切な話である。私は喜んだ、それが出來たらどれだけ仕合せだか分らない。是非一つ骨折つて呉れる樣にと頼み込んで、サテ改めて小屋の中を見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]すと駄菓子に夏蜜柑煙草などが一通り店さきに並べてあつて、奧には土間の側に二疊か三疊ほどの疊が敷いてあるばかりだ。お爺さんはいつも一人きり此處にゐるのか、ときくと、夜は年中一人だが、晝になると麓から女房と娘とが登つて來る、と言ひながら、ほんの隱居爲事に斯んなことをして居るが馴れて見れば結局この方が氣樂でいいと笑つてゐる。小屋のうしろは直ぐ深い大きな溪で、いつの間にか此處らに薄らいだ霧がその溪いつぱいに密雲となつて眞白に流れ込んでゐる。空にもいくらか青いところが見えて來た。では一※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りして來るから何卒お頼みすると言ひおいて私は茶店を出た。
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 その頼みは叶つたのであつた。叶つて私の泊る事になつた寺は殆んど廢寺にちかい荒寺で、住職もあるにはあるのだが麓の寺とかけ持ちで殆んどこちらに登つて來ることもなく、平常はただ年寄つた寺男が一人居るだけであつた。それだけに靜寂無上、實に好ましい十日ばかりを私は深い木立の中の荒寺で過すことが出來た。
 その寺男の爺といふのがひどく酒ずきで、家倉地面から女房子供まで酒に代へてしまひ、今では木像の朽ちたが如くになつてその古寺に坐つてゐるのであつた。耳も殆んど聾《つんぼ》であつた。が、同じ酒ずきの私にはいい相手であつた。毎日酒の飮める樣になつた老爺の喜びはまた格別であつた。旦那が見えてからお前すつかり氣が若くなつたぢアないか、と峠茶屋の爺やにひやかされるほど、彼はいそいそとなつて來た。峠茶屋の爺やもまたそれが嫌ひでなかつた。
 私の滯在の日が盡きて明日はいよ/\下山しなくてはならぬといふ夜、私は峠茶屋の爺やをも招いてお寺の古びた大きな座敷で最後の盃を交し合つた。また前の文章の續きを此處に引かう。
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寺の爺さんは私の出した幾らでもない金を持つて朝から麓に降りて、實に克明にいろ/\な食物を買つて來た。酒も常より多くとりよせ、その夜は私も大いに醉ふ積りで、サテ三人して圍爐裡を圍んでゆつくりと飮み始めた。が、矢張り爺さんたちの方が先に醉つて、私は空しく二人の醉ぶりを見て居る樣なことになつた。そして口も利けなくなつた二人の老爺が、よれつもつれつして醉つてゐるのを見てゐると、樂しいとも悲しいとも知れぬ感じが身に湧いて、私はたび/\泣笑ひをしながら調子を合せてゐた。やがて一人は全く醉ひつぶれ、一人は剛情にも是非茶屋まで歸るといふのだが、脚がきかぬので私はそれを肩にして送つて行つた。さうして愈々別れる時、もうこれで旦那とも一生のお別れだらうが、と言はれてたうとう私も涙を落してしまつた。
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 その峠茶屋の爺さんが即ち今度金婚式を擧げた粟田翁であるのだ。その時、山から京都に降りると其處の友だちが寄つて私のために宴會を催して呉れた。その席上で私は山の二人の老爺のことを話した。するとその中の二三人が其後山に登つてわざ/\茶屋に寄り、斯く/\であつたさうだナといふ話をした。へええ、さういふ人であつたのかと云つて爺さんひどく驚いたといふことをその人から書いてよこした。それから程なく、古い短册帖に添へて、これは昔から自分の家に傳はつて居るものであるが、中に眼ぼしい人の書いたものが入つてゐはせぬか、どうか見て呉れと云つてよこした。これが粟田淺吉といふ名を知つた初めであつた。
 短册帖には三十枚も貼つてあつたが、私などの知つてゐる名はその中にはなかつた。斯ういふことに詳しい友だちにも持つて行つて見て貰つたが、當時の公卿か何かだらうが、名の殘つてゐる人はゐないといふことであつたのでその旨を返事し、なほ自分自身のものを一二枚添へてやつたのであつた。それらのことを、昨日千本濱で京都附近の話の出た時に、その若い坊さんにしたのであつた。其處へこの短册と扇子とが送つて來たのだ。爺さん、まだ頑丈であの山の上の一軒家に寢起きしてゐるのであるかとおもふと、いかにもなつかしい思ひが胸に上つて來た。すると、あの寺男の爺さんはどうしてゐるであらう。
 さういふことを考へてゐると、若い坊さんは急に改めて兩手をついた。そして、昨日からのお話で、今度の自分の行爲が餘りに無理であることが解つた、自分の一生の志願を全然やめ樣とは思はぬが、とにかく今の學校だけは卒業して年寄つた父をも安心させます、では早速ですがこれから直ぐお暇します、といふ。さうする
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