見えて小波の飛沫が我等の爪先を濡らす樣になつた。では、そろ/\歸りませうか、と立ち上る拍子に彼は叫んだ。
『ア、見えます/\、いいですねヱ。』
 と。先刻《さつき》からまちあぐんでゐた富士が、漸くいま雲から半身を表はしたのだ。昨夜の時雨で、山はもう完全にまつ白になつてゐた。
『ほんたうにいゝ山ですねヱ、何と言つたらいゝでせう。』
 私はそれを聞きながら思はず微笑した。漸く彼が全てを忘れて、青年らしい快活な聲を出すのを聞いたからである。
 歸つて來ると、子供たちが四人、門のところに遊んでゐた。そして、
『ヤ、歸つて來た/\。』
 と言ひながら飛びついて來た。一人は私に、一人はその若い坊さんに、といふ風に。
『なぜ斯んな羽織を着てんの?』
 客に馴れてゐる彼等は、いつかもうその人に抱かれながらその墨染の法衣の紐を引つ張り、斯うした質問を出して若い禪宗の坊さんを笑はすほどになつてゐた。
 その翌朝であつた。日のあたつた縁側でいま受取つた郵便物の區分をしてゐると、中から一つの細長い包が出て來た。そしてその差出人を見ると、私は思はず若い坊さんを呼びかけた。
『これは面白い、昨日君に話した比叡山の茶店の老爺から何か來ましたよ、また短册かな。』
 さう言ひながらなほよく見ると、表は四年も昔に引越して來た東京の舊住所宛になつてゐる。スルト、こちらに越して來てから一度の音信もしなかつたわけである。中から出たのは一枚の短册と一本の扇子であつた。
 短册には固苦しい昔流の字で、
『うき沈み登り下りのみち行を越していまては人のゆくすゑ、粟田』
 と書いてある。粟田とは彼の苗字である。變だなア、といひながら一方の扇子を取つて見ると何やら書いた紙で包まれてある。紙には矢張粟田爺さんの手らしく、
『失禮ながら呈上仕候』
 とある。中を開いてみると、
『粟田翁の金婚式を祝ひて』
 といふ前書きで、
『茶の伴や妹背いそちの雪月花、佳鳴』
 と認めてある。
『ホホオ!』
 私は驚いた。
『あのお爺さん、金婚式をやつたのかね。』
『ヘヽエ、もうそんなお爺さんですか、でもねエ、よく忘れずに斯うして送つて呉れますわネ。』
 いつか側に來てゐた妻も斯う言つた。
 さうすると短册の、『うき沈み…』も意味が解つて來る。念のために裏をかへしてみると、『大正十二年』と大きく眞中に書いて、下に二つに割つて『七十六歳、六十五歳』と並べて書いてあるのであつた。
 大正七年の初夏であつた。私は京都に遊んで、比叡山に登つてすぐ降りて來るといふでなく、暫く滞在したい希望で、山上の朝夕をいろいろ心に描きながら登つて行つたのであつた。登りついたのは夕方で、人に教はつてゐた通り、大勢の人を泊めて呉れるといふ宿院といふに行き、取次に出た老婆に滞在のことを頼んだ。ところが老婆の答は意外であつた。今はたゞ一泊の人を泊めてあげるだけで、滞在の人は一切泊めることはならぬ規則になつてゐるのぢや、といふのだ。イヤ、今までよく滞在させて貰つたといふ話を聞き、その積りで登つて來たので是非さうして貰ひたい、と頼むと、今までは今までや、ならんといふたらならんのぢや、といふ風で、まご/\するとその夜の泊りも許されまじい有樣となつた。止むなく、私はどうか今夜だけ、と頼んで漸く部屋に通された。老婆がその通り、給仕に出た小僧も亦た不愉快千萬な奴で、遙々樂しんで來たこの古めかしい山上の幻の影は埓《らち》もなくくづれてしまつた。
 で、翌朝夜があけるのを待つて宿院を出た。すぐ下山しようとしたが、斯んな風では恐らく二度とこの山に登る氣にもなれまい、來たを幸ひ、普通一遍の見物だけでもやつて行かうと踵《きびす》を返して、根本中堂からずつと奧の方へ登つて行つた。當山の開祖傳教大師の遺骨を納めてあるといふ淨土院へゆく路と四明ヶ嶽へ行く路との分れ目の所に一軒の茶店のあるのが眼についた。その時のことを書いておいたものがあるのでその文章を此處に引いて見よう。
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ちやうど通りかかつた徑が峠みた樣になつてゐる處に一軒の小さな茶店があつた。動きやまぬ霧はその古びた軒にも流れてゐて、覗いてみれば薄暗い小屋の中で一人の老爺が頻りに火を焚いてゐる。その赤い火の色がいかにも可懷しく、ふら/\と私は立ち寄つた。思ひがけぬ時刻の客に驚いて老爺は小屋の奧から出て來た。髮も頬鬚も半分白くなつた頑丈な大男で、一口二口話し合つてゐるうちにいかにも人のいい老爺であることを私は感じた。そして言ふともなく昨夜からの愚痴を言つて、何處か爺さんの知つてる寺で、五六日泊めて呉れる樣な所はあるまいか、と聞いてみた。暫く考へてゐたが、あります、一つ行つてきいて見ませう、だが今起きたばかりで、それに御覽のとほり私一人しかゐないのでこれからすぐ出かけるといふわけにはゆ
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