れてあつた。何の氣なく行きすぎたが、私は急にその爺さんに聲がかけて見度くなつた。そして、其儘《そのまま》振返つて見ると、爺さんも丁度こちらを見やうとした所であつた。
『ア、ちよつと、お爺さん!』
 爺さんは明らかにびくりとした。が、流石に私の聲を聞いて走り出すまでにはならなかつた。返事はしなかつたが、立止つて不安さうに振返つた。
『その桃を二つ三つ賣つて呉れませんか。』
 さう言ひながら、二三歩私は歩き戻つた。
『桃かね。』
 爺さんもさう言つて、無理に笑はうとした。
『今朝、宿屋で御飯を待たずに出て來たのでおなかがすいて困るのです。それに、其處の谷で斯んなになつて……』
 袂をあげて見ると、まだしと/\と濡れてゐた。
『ハヽア、さうかね、其處の谷でかね……』
 爺さんの聲も漸く落ちついて來た。そして私が財布をとり出すと、
『二つ三つなら錢はいらねエ、たゞ上げますべえよ。』
 と齒の無い、皺深い顏で、ニコ/\と笑ひながら片手で桃を掴んで呉れた。
『いゝえ、それぢア困る……、ではこれだけ取つといて下さいな。』
 つまみ出した十錢銀貨もまだ露つぽかつた。
『うゝん、そんなにヤいらねエ、おつりもねエ。』
 爺さんは惶てゝ手を振つた。
『ではもう二つこれを下さい。』
 と手づから私は桃を取つた。そして、何といふことなく爺さんを其處に呼びとめておく事が氣の毒になつたので、
『どうも難有《ありがた》う、お蔭で元氣が出ましたよ、左樣なら!』
 と帽子のない頭を下げながら、急ぎ足に歩み出した。爺さんはなほ暫く立つてゐたが、やがてこれも、あちら向きにしよぼ/\と歩き出した。
 私は惶てゝ一つの桃に齒をあてた。大口に噛み缺かれた桃の頭は、實に滴る樣な鮮かな紅ゐの色をしてゐた。全く打ち續けてその汁を啜り取る樣に私は口をつけた。
 一つ二つと夢中に噛んで、ひよつと上を見るといつか疎らになつた林の眞上いつぱいに例の妙義の岩山が眞黒い樣に聳え立つてゐるのが見えた。



底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
   1958(昭和33)年11月30日発行
入力:柴 武志
校正:林 幸雄
2001年6月13日公開
2005年11月14日修正
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