碓氷川を渡つて少しゆくと、また一つの谷を渡らねばならなかつた。其處には橋が流れ落ちてゐた。二三日前の豪雨のためで、まだ其時の水量が相當に殘つてゐた。殘りは爺さんの置土産にしようと思つて買つて來た燒酎をあらかた私は飮んでしまつてゐたので、其頃もまだ充分に醉つてゐた。普通ならばあと戻りをしたであらうが、その醉が躊躇なく私を裸體にした。そして頭に着物と荷物とを押し頂いて、しかも下駄を履いたまゝその谷川の瀬の中へ入つて行つた。
 山谷の事で、流の中に隱れてゐる石は二抱へ三抱への荒石ばかり、少年の頃の經驗からその岩の頭を拾つて足を運ばうとしてゐたのであつたが、洪水の名殘は思ひのほかに激しく、僅か七八歩も踏み出したと思ふと、忽ち私は途方に暮れた。そして自信力の失せると共に、何の事もなく私は横倒しに倒れてしまつた。倒れたまゝ三四間が間くる/\と押し流された。辛うじて瀬の中に表れた大きな岩と岩との間に踏み止つた時には、私の手には帶でくるんだ着物だけが僅かに殘つてゐた。書籍手帳其他を入れた手馴の旅行袋も、帽子も下駄も、面白い勢ひで二三間さきをくる/\と流れて行きつゝあつたが、もう手を出す勇氣は無かつた。見れば其處から七八間下を碓氷川の本流が中高に白渦を卷きながら流れて下つてゐた。其處まで落ちてゆけば、荷物はおろか、自分自身の運命も大抵想像出來るのであつた。
 這ひ上つた岩は自分の渡らうとした向う岸に近かつた。必死の覺悟で、再び流の中に入つてゆくと、速く下駄をぬげばよかつたと悔まれたほど、意外に樂に渡り上ることが出來た。渡り上ると共に濡れた着物を乾かす智慧も出ず、長い間私は石の上につき坐つて息を入れた。そして束ねたまゝで雫の垂れるそれを着て――財布と時計とが袂の中から出て來たのが無闇に嬉しく勇氣をつけて呉れた――とぼとぼと歩き出した。
 其處は妙義の麓の、かなり深い雜木林に當つてゐた。雨のあとの、それでなくとも濕つぽい林の中の道を濡れそぼたれた白地の浴衣で、下駄も履かず、ぴしや/\ぴしや/\歩いてゆく姿は、われながら年若いあはれな乞食を想はせられた。幸ひに人に逢はなかつたが、半道も歩いた頃、向うから大きな笊《ざる》を提げて來る年寄の百姓を見た。初め彼は氣がつかなかつたが、行き違はうとする頃になつて私の姿を見て喫驚した。お互ひに默禮して行き違ひさまに見るとその笊《ざる》には桃がいつぱい入
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