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登りは甚だ嶮しかつたが、思つたよりずつと近く峠に出た。乙女峠の富士といふ言葉は久しく私の耳に馴れてゐた。其處の富士を見なくてはまだ富士を語るに足らぬとすら言はれてゐた。その乙女峠の富士をいま漸く眼のあたりに見つめて私は峠に立つたのである。眉と眉とを接する思ひにひた/\と見上げて立つ事が出來たのである。まことに、どういふ言葉を用ゐてこのおほらかに高く、清らかに美しく、天地にたゞ獨り寂しく聳えて四方の山河を統《す》ぶるに似た偉大な山嶽を讚めたゝふることが出來るであらう。私は暫く峠の眞中に立ちはだかつたまゝ、靜かに空に輝いてゐる大きな山の峯から麓を、麓から峯を見詰めて立つてゐた。そして、若しその峠へ人でも通り合せてはといふ懸念《けねん》から路を離れて一二町右手の金時山の方に登つて、枯芒の眞深い中に腰を下した。富士よ、富士よ、御身はその芒の枯穗の間に白く/\清く/\全身を表はして見えてゐて呉れたのである。
乙女峠の富士は普通いふ富士の美しさの、山の半ば以上を仰いでいふのと違つてゐるのを私は感じた。雪を被つた山巓《さんてん》[#ルビの「さんてん」は底本では「さててん」]も
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