とつ海を越えて見た富士を記してこの文を終る。これは曾て伊豆の西海岸をぼつ/\と歩いて通つた紀行の中から拔いたものである。
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 今度は獨りだけに荷物とてもなく、極めて暢氣《のんき》に登つて行くとやがて峠に出た。何といふことはなく其處に立つて振返つた時、また私は優れた富士の景色を見た。いま自分の登つて來た樣な雜木林が海岸沿に幾つとなく起伏しながら連つてゐる。その芝山のつらなりの間に、遙かな末に、例のごとく端然とほの白く聳えてゐるのである。海岸の屈折が深いから無數の芝山の間には無論幾つかの入江があるに相違ない。その汐煙が山から山を一面にぼかして、輝やかに照り渡つた日光のもとに何とも云へぬ寂しい景色を作つてゐるのである。現にいま老人と通つて來た阿良里《あらり》と田子との間に深く喰ひ込んだ入江などは眼の醒むる樣な濃い藍を湛へて低い山と山との間に靜かに横はつて見えて居る。磯には雪の樣な浪の動いてゐるのも見ゆる。私は其儘其處の木の根につくねんと坐り込んで、いつまでも/\この明るくはあるが、大きくはあるが、何とも云へぬ寂びを含んだながめに眺め入つた。富士の景色で私の記憶を去らぬの
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