けこもれり
心憂く部屋にこもれば夏の日のひかりわびしく軒にかぎろふ
なまけをるわが耳底にしみとほり鳴く蝉は見ゆ軒ちかき松に
無理強ひに仕事いそげば門さきの田に鳴く蛙みだれたるかも
蚤《のみ》のゐて脛《はぎ》をさしさす居ぐるしさ日の暮れぬまともの書きをれば
[#ここで字下げ終わり]

 殆んど夏の間だけの用として、私はほんの原稿紙を置くに足るだけの廣さの小さなテーブルを作つた。其處此處と持ち歩いて、讀書し、執筆するのである。
 部屋のまんなかに置くこともあれば、廊下の窓にぴつたりと添うて据ゑることもある。庭の木蔭にも持ち出せば、家中で風が一番よく通るので風呂場の中に持ち込むこともある。いまは丁度廊下の窓に置いてある。椅子に凭《よ》りながら、片手を延ばせばむつちりと茂つた楓の枝のさきに屆く。葉蔭に咲き滿ちてゐる可愛らしいその花が、昨日今日ほのかに紅みを帶びて來た。

 私のいま住んでゐる附近には辨慶蟹が非常に多い。赤みがかつた、小さな蟹である。庭の木にも登れば、部屋の中にも上がつて來る。ツイ二三日前、何の氣なしに縁側のスリツパを履かうとするとその爪先に這入り込んでゐて大いに驚いた。今年三歳になる男の子のよき遊び友だちである。
 これが庭の柘榴《ざくろ》の木に、どうかすると三四匹も相次いで這ひ登つてゐることがある。苔の生えかけた古木の幹だけに、たいへんにその形が面白い。眞紅な花の散り敷く梅雨の頃が最もいゝ。

 草花いぢりも夏の一得《いつとく》であらう。氣を換へるに非常にいゝ。筆の進まぬ時氣持の重い時、ひよいと庭の畑に出て、草をむしり、水を遣《や》る。言はず聴かずの暫しの時間を過ごすべく、私にはいまこれが一番である。花もよく、四五株の野菜を植うるも愛らしい。
[#ここから3字下げ]
眼に見えて肥料《こやし》ききゆく夏の日の園の草花咲きそめにけり
あさゆふに咲きつぐ園の草花を朝見ゆふべ見こころ飽かなく
いま咲くは色香深かる草花のいのちみじかきなつぐさの花
泡雪《あわゆき》の眞白く咲きて莖につく鳳仙花の花の葉ごもりぞよき
朝夕につちかふ土の黒み來て鳳仙花のはな散りそめにけり
しこ草のしげりがちなる庭さきの野菜ばたけに夏蟲の鳴く
葱苗のいまだかぼそくうすあをき庭のはたけは書齋より見ゆ
いちはやく秋風の音《ね》をやどすぞと長き葉めでて蜀黍《もろこし》は植う
その廣葉夏の朝明《あさ
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
若山 牧水 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング