樹木とその葉
夏を愛する言葉
若山牧水

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)稱《とな》へらるゝ

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一首|蜩《ひぐらし》の歌を

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 夏と旅とがよく結び付けられて稱《とな》へらるゝ樣になつたが、私は夏の旅は嫌ひである。山の上とか高原とか湖邊海岸といふ所にずつと住み着いて暑い間を送るのならばいゝが、普通の旅行では、あの混雜する汽車と宿屋とのことをおもふと、おもふだに汗が流るゝ。
 夏は浴衣一枚で部屋に籠るが一番いゝ樣である。靜座、仰臥、とりどりにいゝ。ただ專ら靜かなるを旨とする。食が減り、體重も減る樣になると、自づと瞳が冴えて來る樣で、うれしい。
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夏深しいよいよ痩せてわが好む面《つら》にしわれの近づけよかし
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 十年ほど前に詠んだ歌だが、今でも私は夏は干乾びた樣に痩せることを好んで居る。それも、手足ひとつ動かさないで自然に痩せてゆく樣な痩せかたである。耳に聽かず、口に言はず、止むなくば唯だ靜かにあたりを見てゐるうちにいつ知らず痩せてゐてほしい。

 夏の眞晝の靜けさは冬の眞夜中の靜けさと似てゐる。おなじく身動きひとつ出來ない樣な靜けさを感ずることがあるが、しかも冬と違つて不氣味《ぶきみ》な靜けさではない、ものなつかしい靜けさである。明るい靜けさである。
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北南あけはなたれしわが離室《はなれ》にひとり籠れば木草《きぐさ》見ゆなり
青みゆく庭の木草にまなこ置きてひたに靜かにこもれよと思ふ
めぐらせる大生垣の槇の葉の伸び清らけし籠りゐて見れば
こもりゐの家の庭べに咲く花はおほかた紅《あか》し梅雨あがるころを
[#ここで字下げ終わり]
 しいんとした日の光を眼に耳に感じながら靜かに居るといふことは、從つて無爲《むゐ》を愛することになる。一心に働けば暑さを知らぬといふが、完全に無爲の境に入つて居れば、また暑さを忘るゝかも知れぬ。ところが、凡人なかなかさう行かない。
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怠《なま》けゐてくるしき時は門に立ちあふぎわびしむ富士の高嶺を
なまけつつこころ苦しきわが肌の汗吹きからす夏の日の風
門口を出で入る人の足音にこころ冷えつつなま
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