迎せねばならなかつたのに此處に來て以來、一週間も十日も家人以外の誰もの顏を見ずに濟ますことが出來た。自づと時間が生れて、するともなく庭の隅の土を起して草花の種を蒔いたり、やさしい野菜物を作つたりする樣になつた。
『これはいゝ、やつぱり此處に越して來てよかつた、どれだけこの方が仕合せか知れない。』
 と心から思ふ樣になつた。娘の健康も眼に見えてよくなつて來た。それに毎日の自分の爲事《しごと》の上から云つてもおちついて机に向ふ事が出來るし、我等の爲事に附きものである郵便の都合もたいへんによかつた。東京と云つても私のそれまで住んでゐたは郊外の巣鴨であつたが、其處と市内との往來に要する郵便の時間よりも、東京と沼津との間に要する時間の方が寧ろ速い程であつた。
 さうした有樣で、一二年の豫定が延びていつの間にか此處に足掛五年の永滯在となつてしまつた。斯うなると改めて東京へ歸つてゆくのが億劫《おくくふ》になつた。いつそ此儘この沼津に住んでしまはうではないか、などと夫婦して話す樣になつた。然し、その五年間を押し通して最初に考へた通りの幸福な時間が送られたわけでは決してなかつた。半年一年とたつうちに自づ
前へ 次へ
全14ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
若山 牧水 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング