樹木とその葉
木槿の花
若山牧水

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)分《ぶん》に過ぎた

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)見て※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて、

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)まだ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 この沼津に移つて來て、いつの間にか足掛五年の月日がたつてゐる。姉娘の方が始終病氣がちであつたのが移轉する氣になつた直接原因の一つ、一つは自分自身東京の繁雜な生活に耐へられなくなつて、どうかして逃げ出さうとしてゐたのが自然さうなつたのでもあつた。自分は山地を望んだが、子供の病氣には海岸がいゝといふわけで、そしていつそ離れるなら少なくも箱根を越した遠くがいゝといふので、何の縁故もないこの沼津を選んだのであつた。
 何の縁故もないとはいふものゝ、自分等の立てゝゐる歌の結社にこの沼津から一人の青年が加入してゐたのをおもひ出して、先づ彼に手紙を出し、とりあへず一軒の借家を見付けて貰ふ樣に頼んだ。程なく返事が來て、心當りの家があるから一度見に來る樣にとの事であつた。今から五年前の八月十日頃であつたと記憶する。早速出かけて來て見ると、分《ぶん》に過ぎた大きな邸《やしき》であつた。荒れ古びてこそをれ、櫻の木に圍まれて七百坪からの廣さがあつた。もう少し小さい家はないかと訊き合せたが、隨分と探したけれど、町内ならとにかく郊外に當つてゐるこの界隈《かいわい》には今のところ此處だけだといふ。それに家賃も格安だつたし、一先づ此處にきめておかうと、その青年父子に――青年のお父さんといふは年老いた醫師であつた――厚く禮を述べ、一晩ゆつくりして行つたらいゝだらうと勸めらるゝのをも斷つて、その日の汽車で私は東京へ歸つた。そしてその旨妻に報告すると共に、翌日から荷造りにかゝつた。
 家の下見に行つた時、その家は本當の空家ではなかつた。まだ人が住んでゐた。何でも或る粘土からアルミニユームを採る方法を發明したと稱へて一つの會社を起さうとしてゐる男であつた。型のごとき山師で、其處に六七箇月住んでゐる間に町の酒屋呉服屋料理屋等にすべて數百圓からの借金を拵《こしら》へ、たうとう居たゝまらなくなつて私の行つた一月ほど前に何處かへ逐電《ちくでん》してしまつたところであつた。そしてその留守宅にはその男の年老いた兩親が殘つてゐた。父親は白い髯《ひげ》など垂らした、品のいい老爺であつた。私が前に言つた青年やその父の老醫師や、東京の或る實業家の持家であるその家を預つて差配をしてゐる年寄の百姓たちと邸の中に入つて行つた時、老爺は庭で草とりをしてゐた。各部屋を見て※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて、此處が湯殿ですと離室に續いた一室の戸を引きあけると、其處で髮を洗つてゐたのが母親であつた。私は見まじきものを見た樣な、厭はしい痛はしい氣がした。その時、私達を案内してゐた差配の百姓、この男ももう相當の爺さんで、小柄の、見るからに險しい顏をした男であつたが、庭でせつせと草を拔いてゐる老爺を呼びかけて、故《ことさ》らに大きな聲で、斯うしてお客樣を案内して來たから、氣の毒だけれど早速この家をあけて貰ひたい、もう斯うなると今度こそは待つてあげるわけにゆかぬから、と宣告した。髯の白い老爺は立ち上つてずつと我等を見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しながら、丁寧にお辭儀をした。
『どうも始末にいかねエんですよ、毎日々々追立を喰はしてるんですけど、どうしても動かねエんでね、……然し今度は立退《たちの》くでせうよ、斯うして旦那がたをお連れ申したんだから。』
 差配は狡猾らしい笑ひを漏らしながら我等を顧みて斯う言つた。
『だつて行く先が無くちや困るでせうに。』
 私は言つた。
『なアに、息子とはちやアんと打合せが出來てるでせうよ、どつちもどつちで、煮ても燒いても食へる奴等ぢやアねエんですから。』
 家賃は僅か一ヶ月分を拂つたのみで、その上うまく擔がれて、多少現金をもその男から捲きあげられてゐる話をひどい早口で差配は話して聞せた。
 家族を連れて沼津驛に降りたのはその月の十五日であつた。その夜一晩、町はづれの狩野川に沿うた宿屋に泊り、翌朝起きてみるとこまかい雨が降つてゐた。二階から見下す下の通りをば番傘をさした近在の百姓女たちが葱や茄子の野菜の籠を擔いで通つてゐたが、それら眞新しい野菜も雨に濡れてゐた。そして窓から少し顏を出して見ると、今度借りた家のうしろに位置してゐる香貫山といふ小松ばかりの圓つこい岡が同じく微雨の中に眺められた。
『何だかたいへん靜かな生
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