活に入つてゆける樣な氣がしてならないが、お前はどうだ。』
早急な引越騒ぎに勞れ果てたらしい顏をしてゐる妻を顧みて私が言ふと、
『ほんとですね、どうかさうしたいものですね。』
と、微かにさびしく笑ひながら答へた。其處へ例の差配をしてゐる百姓がやつて來た。一わたりの挨拶《あいさつ》を濟まして歸つて行つたあと、妻は聲をひそめて、
『何だかいやな顏した爺さんではありませんか。』
とさゝやいた。
三日五日とかゝつて荷物の片付が終ると、夫婦ともにその前後の疲勞から半病人の樣になつてしまつた。そして多くの日を寢たり起きたりで過してしまつた。喜んだのは子供たちで、急に廣くなつた家の内、庭のあちこちを三人して夢中になつて飛んで※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた。
さうかうしてゐるうちに、秋が來た。邸の前は水田、背後は畑であつたが、田のもの畑のもの、みなとりどりに秋の姿に移つて來た。私たちの疲勞も幾らかづつ薄らいで、漸く瞳を定めて物を見得る樣なおちつきが心の中に出來て來た。第一に氣付いたのは來客の無くなつた事であつた。東京にゐては一日少なくも一人か二人、多い日には十人からの來訪者を送迎せねばならなかつたのに此處に來て以來、一週間も十日も家人以外の誰もの顏を見ずに濟ますことが出來た。自づと時間が生れて、するともなく庭の隅の土を起して草花の種を蒔いたり、やさしい野菜物を作つたりする樣になつた。
『これはいゝ、やつぱり此處に越して來てよかつた、どれだけこの方が仕合せか知れない。』
と心から思ふ樣になつた。娘の健康も眼に見えてよくなつて來た。それに毎日の自分の爲事《しごと》の上から云つてもおちついて机に向ふ事が出來るし、我等の爲事に附きものである郵便の都合もたいへんによかつた。東京と云つても私のそれまで住んでゐたは郊外の巣鴨であつたが、其處と市内との往來に要する郵便の時間よりも、東京と沼津との間に要する時間の方が寧ろ速い程であつた。
さうした有樣で、一二年の豫定が延びていつの間にか此處に足掛五年の永滯在となつてしまつた。斯うなると改めて東京へ歸つてゆくのが億劫《おくくふ》になつた。いつそ此儘この沼津に住んでしまはうではないか、などと夫婦して話す樣になつた。然し、その五年間を押し通して最初に考へた通りの幸福な時間が送られたわけでは決してなかつた。半年一年とたつうちに自づと東京にゐた時と同じ樣な環境が自分の身體のめぐりに出來て來た。東京にゐた時とは違つた交際がまた此處でも始められた。東京では廣くはあつたが多く書生づきあひの簡單なものであつた。それが土地の狹いこの沼津となると、なまじひに世間的になつてゐる自分の名前のために、一種形式的な窮屈ないはゆる社會的交際をせねばならぬ場合が多くなつて來た。自分の最も恐れてゐた飮友達も、いつ出來るともなく出來て來た。斯くて初めに願つてゐた隱栖《いんせい》といふ生活とは違つた朝夕がいつともなしに送らるゝ樣になつてゐたのだ。それでもまだ/\東京よりましだと信じてゐた。イヤ現にさう信じてゐるのではある。
初めに老醫師の世話で借りた家は、戸じまりも充分に出來兼ぬるほど荒れ古びた家で、しかも間取も甚だ拙く、うまく使へる部屋とても無かつたが、とにかく部屋の數は九つあつた。書生や女中や家族たちをそれ/″\に配置して、まだ來客に備ふる一室位はどうやら殘つてゐた。家の古いこと、町から遠くて不便なこと(これも最初はさうでなかつたのだが、生活の間口が廣くなるにつれて次第に不便を感じて來た。)家の前後から襲うて來る田畑の肥料の臭氣、其他あれこれのことをば我慢しても、出來ることなら此儘《このまま》此處にぢいつと暮して行かうと思つてゐたのであつたが、さう出來ぬ事情になつた。
表面の理由は他にあつたが、要するに差配の爺さんの我慾と狡猾とに我等は追はれたのであつた。なほ詮じてゆくと、其處にはその爺さんと私の妻との感情問題も遠い因をなしてゐた。第一印象としての彼女の彼に對する不快は年ごとに深くなつて、事ごとに眼に見えぬ衝突が兩人の間に行はれてゐたのであつた。
今年四月末、二ヶ月もかゝつた中國九州地方の長旅行から歸つて來て見ると、四圍の事情は私の留守の間に急變してゐて、どうでも差迫つた時間内にその家をあけ渡さねばならなくなつてゐた。喧嘩腰になつてかゝればさう周章《うろた》へる必要もなかつたのだが、それはこちらの氣持が許さなかつた。喧嘩どころか、もうさうなると一刻も速くこちらから逃げ出したい氣がいつぱいになつてゐるのであつた。で、苦笑しながら私は早速に空家さがしを始めた。東京へ引揚ぐるのはもともといやだし、他の土地へ移るといふも億劫《おくくふ》だし、矢張り沼津を――私が越して來てゐるうちに沼津町から沼津市に變つてゐた――中心とし
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