て恰好《かつかう》な空家は無いかと探し始めた。自身はもとより、手の及ぶ限り知人たちにも頼んであちこちと探した。
 さて、無かつた。極く小さな家ならばぼつ/\と眼についたが、泊り客の多いこと、また毎月出してゐる自分達の歌の流派の機關雜誌の事務室の必要なこと等から、どうでも六つの部屋を持つた家でなくては都合が惡く、その見當で探すとなると、一向に見あたらなかつた。偶々あつたとすると、それは避暑避寒地としての貸別莊向に建てられた家で、家賃が大概月百圓を越してゐた。
 たうとうこの家探しの騷ぎのために夫婦とも頭を痛くしてしまつた。その間、私はおちついて机に向ふ餘裕を失つて、爲事の方もすつかり支《つか》へてしまつた。其處へ、頼んでおいた或る友人から斯ういふ家があるがどうかと言つて來た。いま現に建築中のもので間數は玄關女中部屋を入れて五室、場所は市内千本濱の松原の蔭だといふ。餓ゑては食を選ばず、私は少なからず喜んだ。ではそれで我慢するとして雜誌發行の事務室だけをばまた他に間借りでもする事にしようと、早速その示された場所へ出懸けて見た。松原の蔭はよかつたが、ツイ背後に私立の女學校があり、僅かの田圃を距てた眞前に遊郭があつた。ほんの手狹な空地を利用して建てられたもので、庭らしい庭もなく兼々自分の望んでゐた樣な靜かな、他とかけ離れた樣な場所では決してなかつた。が、今更そんな贅澤《ぜいたく》は言つて居られなかつた。早速私は家主と逢つて、借りる約束をきめた。それは六月の始めで、今月一杯には出來上るとの事であつた。
 やがて六月の末が來たが、家にはまだ壁も出來なかつた。七月十五日まで待つて呉れといふ。止むなく待つ事にした。其處へ運惡くも二番目の娘が病みついた。二三日ぶら/\してゐて、いよいよ寢込んだのが七月の朔日《ついたち》か二日であつた。初め二三日、症状がはつきりせず、ともすると腸チブスではないかなどといふ熱の工合であつた。が、程なく肋膜炎だと解つた。しかも、起らねばいゝがと恐れられてゐた肺炎をも併發した。夫婦は晝夜つき切りにその枕頭に坐らねばならなくなつた。
 一方差配の爺さんからはそんなことに頓着なく、家のあけ渡しを迫つて來た。病兒の看護のひまを盜み/\私は新しい家の出來上りの催促に通はねばならなかつた。十五日は過ぎ、二十日は過ぎ、たうとう七月は暮れてしまつたが、まだ何彼と手間取つて、その松原の蔭の小さな可愛らしい家には一人二人と大工や左官たちが呑氣《のんき》さうに出入りしてゐるのみであつた。
 壁位ゐは引越してから塗らしてはどうです、といふやうな亂暴を例の差配の爺さんは言ひ出した。よく/\腹に据ゑかねたが、要するに喧嘩にもならなかつた。そして改めて新しい家の方をせきたてて、この八月の九日の朝、いよ/\引越す事にきめた。業腹《ごふはら》ながら爺さんの言葉通りに、荒壁の上塗だけは越してから塗ることにして、九日曉荷物を運び込む故、疊だけは必ず敷いておいて呉れ、と固くも頼んで、看護の片手間にこそ/\と荷造りにかゝつた。醫者は子供を氣遣うて、もともと絶對安靜を要する病氣なのだから出來得る限り、動かす事を延ばさぬかと言うて呉れたが、どうもさうして居られない状態にあつた。
 九日早曉、手傳の人と共に先づ二臺だけの荷馬車を新しい家の方へ差立てた。そしてそれの引返して來る間に私は俥で近所の挨拶※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りに出た。引返して來た荷馬車屋は、行つてみた所まだ一枚の疊も敷いてなく、荷物の置場所に困つたがとりあへず庭先に置いて來たと云ふ。まだ歸さずにおいた俥に乘り、私は新しい家に駈けつけて、せめて病人を寢せる部屋だけでいゝから早速疊を入れて呉れる樣にと頼んでまた舊い方の家に引返し、やがて階下の六疊と八疊とに疊が入つたといふ報告を聞いて後、妻と共に病兒の俥につき添うて、五年間住んで來た古びた大きな邸の門を出た。
 斯うして苦勞して入つた今度の家は、六疊の茶の間八疊の座敷に、中二階の樣になつた西洋まがひの六疊の部屋があり、他に玄關女中部屋湯殿が附いてゐて、いかにも小ぢんまりした、新婚の夫婦などには持つて來いの家である。が、九人家内の我等には相應すべくもない。越して來て今日で丁度十日目だが、まだ荷物も片付かず、新しい家に落ち着いたといふ喜びも安心も更に心の中に生れて來てゐない。
 唯だ難有《ありがた》いのは、ツイ裏手に千本松原のある事と、自分の書齋にあてゝゐる中二階から幾つかの山を望み得る事とである。書齋は東と北とに窓があいてゐる。東の窓からは近く香貫《かぬき》徳倉《とくら》の小山が見え、やゝ遠く箱根の圓々しい草山から足柄《あしがら》の尖つた峰が望まるゝ。北の窓からは愛鷹山《あしたかやま》を前に置いた富士山が仰がるゝ。
 が、それらの山よりも松原
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