圖、萬國々旗表、といふ樣なものが張つてあり、その一方の戸棚には僅かの書物や書類と共に、幾品かの藥品が入れてあつた。この寂び古びた壜や箱の藥品が私には常に氣になつた。凪いで居ればこそ一週間ごとに船が來るが、荒れたとなれば十日もその上も一切他と交通のきかぬこの離れ島に住んで居る幾人かの生命をば僅かにこの幾品かの藥品が守つてゐるのである。大きなテーブルの一部の埃を拂つて凭りかゝりながら、おなじく埃でよごれてゐる大きな地圖を見、棚の上の藥壜を眺め、または窓から見ゆる蒼空を仰いで、靜かな樣な、そして何となく落ちつかぬ時間を私はその部屋[#「部屋」は底本では「屋部」]で過ごした。
 でなければ、釣であつた。よほどの鋭い角度で海底から突つ立つてゐるらしいこの岩礁の四周の磯は到る所が深かつた。浪さへなければ、餌をおろせば大小さま/″\の魚がすぐ釣れた。餌はそこらの岩の間に棲んでゐる蟹であつた。
 或る日、私は獨りでとある岩の角に坐つて釣つてゐた。其處へ友人がやつて來た。何か用ありげに私の側に腰をおろしてゐたが、やがて、
『若山君……』
 と呼びかけて、
『どうだね、一つ、君も東京あたりにいつまでもぐづ/\してゐないで、いつそ諦めてこの燈臺守にならんかね。』
 と言ひ出した。彼自身これまでに通つて來た境遇の繁雜なのに飽いて、何處か斯う目をつぶつて暮せる樣な靜かな境地はないものかと考へて、他にもかくして航路標的所の試驗を受けた、そして實地此處に來て見ると前から空想してゐた靜かな生活といふ事よりも先づ身にしみたのは暮らしむきの安全といふことであつた、今まで自分も隨分といろんな事をやつて來たが、要するに頭には故郷があつた、親や親類の財産があつた、いよ/\それから見離されたとなると、自づと考へらるゝのはその日/\の生活である、それもはつきりと具體的に考へてゐたのではなかつたが、此處に來て見ていよ/\さうであつたことが解つた、それにまたどうしても自分の歳や健康のことも考へられて來る、それにはこの燈臺守位ゐ安全な生活法はないのだ、月給にした所が他に比べては非常にいゝ、早い話が君が四五年かゝつて大學を出てから新聞社に勤めた月給より僕が六ヶ月の學期を終へて此處に勤めてのそれの方が多いではないか、また、貰つた月給は殆んど貰つたなりに殘つてゆくのだ、見給へ此處で斯うしてゐる分には自分等の食ふ米味噌代のほかには金の使ひやうがないではないか、此處に限らない、灯臺の在る所は大抵似たり寄つたりの場所ばかりなのだ、現に此處の臺長なども幾個所か勤めて歩いて來たのだがその間に溜めた金と云つたら素晴らしいものだ、今では伊豆の方に澤山な地所も買つてあり家をも建てゝ、其處から長男長女を中學校女學校に出してゐる、君もいつまでも歌だの文學だのと言つて喰ふや喰はずにゐるよりか、一つ方角を變へてこの道に入らないか、入つたあとでまた歌なり何なり充分に勉強出來るではないか、見給へ、僕等は四人詰で此處に斯うしてゐるが、職業に就いて費す時間と云つたら朝の燈臺の掃除と夕方の點火と二三行の日記を書く事と、全部で先づ毎日三四十分の時間があつたらいゝのだ、あとは何をしてゐやうと自分の勝手ではないか、いろいろ慾を考へずにさうきめた方が幸福だと思ふよ、と私の顏を見い/\いつもの荒つぽい調子に似合はず、ひそひそとして説き勸めて呉れるのであつた。そして、私の身體に目をつけながら、
『それに第一、遠方から來るといふのにそんな小ぎたない風態をして來る奴があるものか、君の細君も細君だ、僕は最初の日、羽織袴で出迎へて呉れた臺長の手前、ほんとに顏から火が出たよ、其處へもつて來ていきなり歸るなんか言ひ出すもんだからあんな騷ぎになつたのだよ。』
 と言つて苦笑した。
 私もいつか竿をあげて聽いてゐた。島に來てから見るともなく、其處の彼等の生活がいかに簡易で、靜かであるかを見てゐながら、多少それを羨む氣持が動いてゐたところなので、一層友人のこの勸告が身にしみた。同じく苦笑しながら、
『ウム、難有《ありがた》う[#「難有《ありがた》う」は底本では「雜有《ありがた》う」]、まア考へておかう。』
 と言つてその日は濟んだ。が、それからといふもの、例の空中の宿直室に在つても岩かげの事務室にゐても、釣絲を垂れながらも、私の心はひどくおちつきを失つてゐた。燈臺守になるならぬの考へが始終身體につき纒《まと》うてゐたのである。なつての後、いかに其處により善く生活してゆくか、本を買ふ、讀書をする、遠慮なく眼を瞑《と》ぢて考へ且つ作る、さうした樂しい空想もまた幾度となく心の中に來て宿つた。
 が、何としても今までのすべてと別れて其處に籠る事は、寂しかつた。よしそれを一時の囘避期準備期として考へても、とてもその寂しさに耐へ得られさうになかつた。その寂し
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