さうだ。船の島に着いたのは午前十時頃であつた。そして、つれられてその岩窟内の彼の居間に通つて、二年振ほどで彼と對座したのであつた。彼の妻とは初對面であつた。まだ年も若く、何も知らない田舍の娘と云つた風の人であつた。
氣のせゐかいかにも從來の彼としてはおちつきが出來てゐた。おちついたといふより、急に老《ふ》けて見えた。それにさうした變つた場所のせゐか、私自身が浪や船に勞れてゐた爲か、それとも初對面の細君が側にゐる故か、久し振に逢つたにしては今までの樣に間が調子よく行かなかつた。彼もそれを感じてゐたらしく、大きな聲で先づ酒を出す樣にとその妻に言ひつけた。
年若い妻は案の如く大輪のダリヤの花を見て驚喜した。そして珍客の接待よりも先づその花をあり合はせの器に活けて、その部屋にたゞ一つしかないガラス窓の所に持つて行つて据ゑた。窓のツイ向うには刳《ゑぐ》り取つた岩の斷層面がうす赤く見えてゐた。そしてその岩の上僅か一尺ばかりの廣さに空が見えた。何といふ深い色であつたことだらう。今でもそれを思ひ出すごとに私にはその空の色が眼に見えて來る。照り澄んだ秋の眞晝であつたとは云へ、まことに不思議な位ゐの藍色が其處に見られた。そして、この深い藍の色は一層私の心を、沈んだ、浮き立たぬものにした樣に感ぜられた。その色の前にあるダリヤの花はすべてみな褪《あ》せさらばうたものにさへ眺められた。
直ぐ始まつた酒は一時間二時間と續いて行つた。が、最初にそれ始めた私の心の調子はどうしても平常の賑かな晴々しい所に歸つて行かなかつた。友人とても亦たさうであつた。そしてどうかしてその變調子を取り除かうと努めてゐるのがよく解つた。
其處へ、積荷を上げ、晝食をとり、一休みした船頭たちの一人が顏を出して友人に言つた。
『ではもう船を出しますが、別にお忘れの御用はございませんか。』
それを聞くと私は咄嗟に決心した。
『K――君、では僕もこの船で歸らう、ただ顏を合せればそれで氣が濟むと思ふから……』
さう言ひながら、居ずまひを直さうとした。不意に彼は立ち上つた。これは、と思ふ間もなく彼の烈しい拳が私の頭に來た。惶てゝ身をかはす間に二つ三つと飛んで來た。呆氣《あつけ》にとられた船頭は漸く飛びかゝつて彼を背後から抑へた。隣室からは臺長夫妻が飛んで來た。
『何だと、……歸る、ひとを散々待たしておいて、來たかと思ふと歸るとは何だ。歸れ、歸れ、直ぐ歸れ、この馬鹿野郎……』
彼はなほ立つたまゝ私を睨み据ゑて、息を切らしてゐる。たうとう私は平あやまりにあやまつて改めてこの次の船まで、その島に滯在することにきめてしまつた。
燈臺は島で一番の高い所に立つてゐた。燈臺の高さ十六丈、その根から直ぐ斷崖になつて二十丈ほどの下には浪が寄せてゐた。で、燈臺の最高部、燈火の點る燈室から眞下を見下す事は私の樣な神經質の者には到底出來なかつた。たゞ其處からの遠望はよかつた。伊豆半島が案外の近さに眺められた。半島の中心をなす天城山《あまぎさん》が濃く黒く、どつしりとして眼前に据つてゐた。半島から島までは例の白渦の流れてゐる狹い海、それを除いた三方にはすべて果しもない大きな荒海があつた。晴れた日には黒潮の流が見えた。見えたといふより感ぜられた。動くともなく押し移つてゐる大きな潮流が、その方面を眺めてゐるうちにしみ/″\として身に感ぜられて來た。伊豆七島のうち二三の島がその潮流のうへにくつきりと浮んで見えた。丁度西風の吹き始めた季節で、黒ずんで見ゆるその濃藍色の大きな瀬の上にあまねくこまかな小波の立ち渡つてゐるのが美しくも寂しかつた。夜は、燈臺の火を眼がけていろんな鳥が飛んで來た。そして燈臺の厚いガラス板に嘴を打ちつけては下に落ちた。朝、燈臺の下に行つて見ると幾つかのそれを拾ふ事が出來た。海鳥が多かつたが、中には伊豆の天城から飛んで來るらしい山の鳥も混つてゐた。
燈室の床はその四壁と同じく厚いガラス張となつて居り、その下に宿直室があつた。ガラス張を天井とするこの宿直室は、一尺四方ほどの小さな窓を二つほど持つてはゐたが明りは主としてその天井から來た。一脚の卓子《テーブル》と椅子とが、燈臺の形なりの狹い圓型のその室内にあり、圓いなりの石の壁には小さな六角時計がかけてあつた。海上三十餘丈の上の空中にぼつつと置かれたこの部屋の靜けさは、また格別であつた。私はこつそりと螺旋形の眞暗な階子段を登つて來てはこの不思議な形をした小さな部屋の椅子に凭《よ》る事を喜んだ。よく當る風にしろ、よほど強く吹いてゐない限りは四尺厚さの石の壁を通してその薄暗い室内には聞えて來なかつた。
その空中の宿直室に居なければ私は多く事務室にゐた。それは燈臺守たちの住宅の岩窟の一角に、他の部屋よりはやゝ廣目に作つてあつた。壁には日本地圖世界地
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