つたが私の行つた時には一人缺員のまゝであつた。臺長といふのはもういゝ年輩で、夫婦にちひさい子供が二人ゐた。私の友人はその少し前に郷里で細君を貰つて其處へ連れて行つてゐた。そしてそのほかに廿六七歳の獨身の人が一人ゐた。
 その友人を知つたのはそれよりも六七年前、私が早稻田大學の豫科生の時であつた。當時私は讀み耽つてゐた『透谷全集』を教室にまで持ち込んで、授業中にも机の下に忍ばせて讀んでゐた。或る時偶然同じ机に隣り合つて坐つたのがその友人で、彼も亦同書の愛讀者であつた。それが緒で折々往來する樣になつたが、別に親しいといふ程ではなかつた。そのうち半年もたつと急に彼の姿が教室から見えなくなつた。一年たち二年たちする間に、同級生であつた彼の同郷人から聞くとなく彼の噂をとび/\に聞いてゐた。彼は佐賀縣の或る金滿家の息子で、急に學校が厭になると郷里に歸つて、以後一切關係を斷つ約束のもとに家から數萬圓の金を分けて貰ひ、肥前の平戸沖あたりの小さな島を全部買ひ切つて一人して其處へ移り牛や鷄を放し飼にして樂しんでゐた。それもほんの暫くでいやになり、二束三文で全てを賣り拂つた金で大盡遊びを續け、金が盡きると或る炭鑛の鑛夫になつた。それも僅の間で、親類たちに多少の金をねだつて米國へ渡り、昨今はあちらで鑵詰工場の職工をしてゐる相だ、といふ樣なことを。が、それも學校にゐる間の事で、學校を出ると同時に彼の同郷人の級友ともすつかり別れてしまつたので、其後の噂を聞くたよりもなかつた。
 學校を出て一年あまりもたつた頃、私は或る新聞の記者となつてゐた。其處へ突然見すぼらしい風をして訪ねて來たのが彼であつた。いきなり私の前へ五六圓の金を投げ出して言つた。
『僕は今度、亞米利加から船中で團扇《うちは》で客を煽《あふ》ぐ商賣をやつて來た。これはその金の殘りだ。これで一杯飮まうよ。』
 それから幾日か私の下宿にころがつてゐたが、多少繪の心得のある所から自分からたづね歩いて或るペンキ屋に入り込み、キヤタツ[#「キヤタツ」に傍点]を擔いで看板繪をかいて歩いてゐた。それもほんの數日で、或る日またふらりとやつて來た。
『いまペンキ屋の親爺《おやぢ》を毆つて飛出して來たよ。』
 程經て市内電車の運轉手になつた。これは割合に永く續いたが、何かの事で首になつた。其後、彼に似氣なく入學試驗といふものを受けて入學したのが横濱に在る航路標的所何とかいふ、つまり燈臺守の學校であつた。六ヶ月間の學期を無事に終へて、初めて任命されて勤めたのが、この神子《みこ》元島《もとじま》燈臺であつた。そしてかれこれ一年あまりもたつたであらうか、漸く自分も從來の放浪生活の非をしみ/″\覺つて、今後眞面目にこの燈臺守の靜かな朝夕の裡に一生を終へようと思ふ樣になつた、さう決心すると同時に郷里に歸つて妻をも貰つて來た、この心境の一轉を見るために一度この島に遊びに來ないか、といふ風の手紙を二三度も私の所によこしてゐたのであつた。
 彼ほど徹底してはゐなかつたが、私もまた彼のいふ放浪生活の徒の一人であつた。學校を出て、一箇所二箇所と新聞社にも出て見たが、何處でも半年とはよう勤めなかつた。轉じて雜誌記者となつたが、これも三四ヶ月でやめてしまつた。自分等の流派の歌の雜誌を自分の手で出して見たが、初めは面白くやつてゐても直ぐ飽きが來た。さうかうしてゐるうちにいつか自分もひとの夫となり親となつてゐた。さうしてその日の米鹽すら充分でない樣な朝夕をずつと數年來續けて來てゐたのである。さういふ場合だつたので、今まではさういふ島があるといふ事すら知らなかつたこの島からの友人のたよりは、割合深く私の心にしみたのであつた。そして、終《つひ》に其處に出かける氣になつた。
 秋のダリヤの盛りの頃であつた。一本の木草すら無いといふその島には恰好《かつこう》の土産であらうと私はそれを澤山買つて行つた。先づ靈岸島から汽船で下田まで行き、其處で彼も吾も好物の酒を買つて第二の手土産とした。下田から一週間おきに燈臺通ひの船が出ることになってをり、その船で水から米、其他燈臺守たちの必需品を運ぶのであった。前に友人からよく樣子を知らして來てあつたので、都合よくそれに便船する事が出來た。下田を出ると、船は忽ち烈しい波浪の中に入つた。何處でも岬のはなの浪は荒いものであるが、其處の伊豆半島のとつぱなは別してもひどかつた。それは單に岬だけの端といふでなく、其處には無數の岩礁が海の中に散らばつてゐた。形を露はしたものもあり、僅かに其處だけに渦卷く浪によつて隱れた岩のあるのを知る所もあつた。それらの岩から岩の間にかもされた波浪は、見ごとでもあり凄くもあつた。船には大勢の船頭が乘り込んでゐた。
 多分今日の船で來るであらうと、友人は朝から雙眼鏡を持つて岩の頭に立つてゐたのだ
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