さに耐ふる位ゐなら其處に何の生活の安定があらうとさへ思はれた。そして、或る日、見るともなく事務室の藥品棚の中にある古錆びた藥品を見詰めながら、私は獨りで笑ひ出した。そして自分に言つた、斯うしたものに預けておくには自分の身體にはまだ/\少々|膏《あぶら》が多過ぎる、と。
さう思ひきめると、急に東京が戀しくなつた。其處にゐる妻や友人たちが戀しくなつた。そして豫定の日が來ると、私は曾つて私の來る時に友人がしたといふ樣に、朝早くから雙眼鏡を取つて岩の頭に立ちながら、向うの方に表はれて來るであらう船の姿を探した。
いよ/\船に乘り移らうとする時、何となく私はこれきりでこの友人とももう逢ふ機會があるまいといふ樣な氣がした。そして、固くその手を握りながら、
『どうだ、臺長に願つてこれから一緒に下田まで行かんか、あそこで一杯飮んで別れようぢやないか。』
と言つた。一年も續けて土を踏まずにゐると脚氣の樣な病氣に罹りがちなので、折々交替に二三週間づつ陸地の方へ行つて來るといふ話を思ひ出してさう言つた。
『フヽツ』
と彼は笑つた。
『まアよさう、行くなら東京へ訊ねて行かうよ、君もまたやつて來て呉れ、今度はもう毆らんよ、ハヽヽヽ』
『ハヽヽ』
自分も笑つた。送つて來て呉れた燈臺中の人も、船頭たちも、みな聲を合せて笑つた。
底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:柴武志
校正:浅原庸子
2001年4月16日公開
2005年11月9日修正
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