るのであつた。そしてそれらの澤のうち特に深く切れ込んだものゝ底から底にかけてはありとも見えぬ淡い霞がたなびいてゐるのであつた。
峠を降りつくした處に古び果てた部落があつた。栃本《とちもと》と云ひ、秩父の谷の一番奧のつめに當る村なのである。削り下した嶮崖の中に一筋の繩のきれが引つ懸つた形にこびりついてゐるその村の下を流れる一つの谷があつた。即ち荒川隅田川の上流をなすものである。いま一つ、十文字峠の尾根を下りながら左手の澤の底にその水音ばかりは聞いて來た中津川といふがあり、これと栃本の下を流るゝものとが合して本統の荒川となるものであるが、あまりに峽が嶮しく深く、終《つひ》にその姿を見ることが出來なかつた。
栃本に一泊、翌日は裏口から三峰に登り、表口に降りた。そして昨日姿を見ずに過ごして來た中津川と昨日以來見て來てひどく氣に入つた荒川との落ち合ふ姿が見たくて更にまた川に沿うて溯り、その落ち合ふところを見、名も落合村といふに泊つた。
斯くして永い間の山谷の旅を終り、秩父影森驛から汽車に乘つて、その翌日の夜東京に出た。すると其處の友人の許に沼津の留守宅から子供が脚に怪我をして入院してゐる、
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