くのである。
 さうなつた草鞋を捨てる時がまたあはれである。いかにも此處まで道づれになつて來た友人にでも別れる樣なうら淋しい離別の心が湧く。
『では、左樣なら!』
 よくさう聲に出して言ひながら私はその古草鞋を道ばたの草むらの中に捨てる。獨り旅の時はことにさうである。
 私は九文半の足袋を穿く。さうした足に合ふ樣に小さな草鞋が田舍には極めて少ないだけに(都會には大小殆んど無くなつてゐるし)一層さうして捨て惜しむのかも知れない。
 で、これはよささうな草鞋だと見ると二三足一度に買つて、あとの一二足をば幾日となく腰に結びつけて歩くのである。もつともこれは幾日とない野越え山越えの旅の時の話であるが。

 さうした旅をツイ此間私はやつて來た。
 富士の裾野の一部を通つて、所謂《いはゆる》五湖を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り、甲府の盆地に出で、汽車で富士見高原に在る小淵澤驛までゆき、其處から念場が原といふ廣い/\原にかゝつた。八ヶ岳の表の裾野に當るものでよく人のいふ富士見高原なども謂《い》はゞこの一部をなすものかも知れぬ。八里四方の廣さがあると土地の人は言つてゐた。その原を通り越す
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