樹木とその葉
草鞋の話旅の話
若山牧水
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)草鞋《わらぢ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り、
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)廣い/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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私は草鞋《わらぢ》を愛する、あの、枯れた藁《わら》で、柔かにまた巧みに、作られた草鞋を。
あの草鞋を程よく兩足に穿《は》きしめて大地の上に立つと、急に五軆の締まるのを感ずる。身軆の重みをしつかりと地の上に感じ、其處から發した筋肉の動きがまた實に快く四肢五軆に傳はつてゆくのを覺ゆる。
呼吸は安らかに、やがて手足は順序よく動き出す。そして自分の身軆のために動かされた四邊《あたり》の空氣が、いかにも心地よく自分の身軆に觸れて來る。
机上の爲事《しごと》に勞《つか》れた時、世間のいざこざの煩《わづら》はしさに耐へきれなくなつた時、私はよく用もないのに草鞋を穿いて見る。
二三度土を踏みしめてゐると、急に新しい血が身軆に湧いて、其儘《そのまま》玄關を出かけてゆく。實は、さうするまではよそに出懸けてゆくにも億劫《おくくふ》なほど、疲れ果てゝゐた時なのである。
そして二里なり三里なりの道をせつせと歩いて來ると、もう玄關口から子供の名を呼び立てるほど元氣になつてゐるのが常だ。
身軆をこゞめて、よく足に合ふ樣に紐《ひも》の具合を考へながら結ぶ時の新しい草鞋の味も忘れられない。足袋を通してしつくりと足の甲を締めつけるあの心持、立ち上つた時、じんなりと土から受取る時のあの心持。
と同時に、よく自分の足に馴れて來て、穿いてゐるのだかゐないのだか解らぬほどになつた時の古びた草鞋も難有《ありがた》い。實をいふと、さうなつた時が最も足を痛めず、身軆を勞れしめぬ時なのである。
ところが、私はその程度を越すことが屡々《しばしば》ある。いゝ草鞋だ、捨てるのが惜しい、と思ふと、二日も三日も、時とすると四五日にかけて一足の草鞋を穿かうとする。そして間々《まま》足を痛める。もうさうなるとよほどよく出來たものでも、何處にか破れが出來てゐるのだ。從つて足に無理がゆくのである。
さうなつた草鞋を捨てる時がまたあはれである。いかにも此處まで道づれになつて來た友人にでも別れる樣なうら淋しい離別の心が湧く。
『では、左樣なら!』
よくさう聲に出して言ひながら私はその古草鞋を道ばたの草むらの中に捨てる。獨り旅の時はことにさうである。
私は九文半の足袋を穿く。さうした足に合ふ樣に小さな草鞋が田舍には極めて少ないだけに(都會には大小殆んど無くなつてゐるし)一層さうして捨て惜しむのかも知れない。
で、これはよささうな草鞋だと見ると二三足一度に買つて、あとの一二足をば幾日となく腰に結びつけて歩くのである。もつともこれは幾日とない野越え山越えの旅の時の話であるが。
さうした旅をツイ此間私はやつて來た。
富士の裾野の一部を通つて、所謂《いはゆる》五湖を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り、甲府の盆地に出で、汽車で富士見高原に在る小淵澤驛までゆき、其處から念場が原といふ廣い/\原にかゝつた。八ヶ岳の表の裾野に當るものでよく人のいふ富士見高原なども謂《い》はゞこの一部をなすものかも知れぬ。八里四方の廣さがあると土地の人は言つてゐた。その原を通り越すと今度は信州路になつて野邊山が原といふのに入つた。これは、同じ八ヶ岳の裏の裾野をなすもので、同じく廣茫たる大原野である。富士の裾野の大野原と呼ばるゝあたりや淺間の裏の六里が原あたりの、一面に萱《かや》や芒《すすき》のなびいてゐるのと違つて、八ヶ岳の裾野は裏表とも多く落葉松《からまつ》の林や、白樺の森や、名も知らぬ灌木林などで埋つてゐるので見た所いかにも荒涼としてゐる。丁度樹木の葉といふ葉の落ちつくした頃であつたので、一層物寂びた眺めをしてゐた。
野邊山が原の中に在る松原湖といふ小さな湖の岸の宿に二日ほど休んだが、一日は物すごい木枯《こがらし》であつた。あゝした烈しい木枯は矢張りあゝした山の原でなくては見られぬと私は思つた。其處から千曲川《ちくまがは》に沿うて下り、御牧が原に行つた。この高原は淺間の裾野と八ヶ岳の裾野との中間に位する樣な位置に在り、四方に窪地を持つて殆んど孤立した樣な高原となつて居る。私は曾つて小諸町からこの原を横切らうとして道に迷ひ、まる一日松の林や草むらの間をうろ/\してゐた事があつた。
其處から引返して再び千曲川に沿うて溯《さかのぼ》り、終《つひ》にその上流、と
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