いふより水源地まで入り込んだ。此處の溪谷は案外に平凡であつたが、その溪を圍む岩山、及び、到る所から振返つて仰がるゝ八ヶ岳の遠望が非常によかつた。
そしてその水源林を爲す十文字峠といふを越えて武藏の秩父《ちちぶ》に入つた。この峠は上下七里の間、一軒の人家をも見ず、唯だ間斷なくうち續いた針葉樹林の間を歩いてゆくのである。常磐木を分けてゆくのであるが、道がおほむね山の尾根づたひになつてゐるので、意外にも遠望がよくきいた。近く甲州路の國師嶽甲武信嶽、秩父の大洞山雲取山、信州路では近く淺間が眺められ、上州路の碓氷妙義などは恰も盆石を置いたが如くに見下され、ずつとその奧、越後境に當つた大きな山脈は一齋に銀色に輝く雪を被《かづ》いてゐた。
ことにこの峠で嬉しかつたのは、尾根から見下す四方の澤の、他にたぐひのないまでに深く且つ大きなことであつた。しかもその大きな澤が複雜に入りこんでゐるのである。あちこちから聳《そび》え立つた山がいづれも鋭く切れ落ちてその間に深い澤をなすのであるが、山の數が多いだけその峽も多く、それらから作りなされた澤の數はほんとに眼もまがふばかりに、脚下に入り交つて展開せられてゐるのであつた。そしてそれらの澤のうち特に深く切れ込んだものゝ底から底にかけてはありとも見えぬ淡い霞がたなびいてゐるのであつた。
峠を降りつくした處に古び果てた部落があつた。栃本《とちもと》と云ひ、秩父の谷の一番奧のつめに當る村なのである。削り下した嶮崖の中に一筋の繩のきれが引つ懸つた形にこびりついてゐるその村の下を流れる一つの谷があつた。即ち荒川隅田川の上流をなすものである。いま一つ、十文字峠の尾根を下りながら左手の澤の底にその水音ばかりは聞いて來た中津川といふがあり、これと栃本の下を流るゝものとが合して本統の荒川となるものであるが、あまりに峽が嶮しく深く、終《つひ》にその姿を見ることが出來なかつた。
栃本に一泊、翌日は裏口から三峰に登り、表口に降りた。そして昨日姿を見ずに過ごして來た中津川と昨日以來見て來てひどく氣に入つた荒川との落ち合ふ姿が見たくて更にまた川に沿うて溯り、その落ち合ふところを見、名も落合村といふに泊つた。
斯くして永い間の山谷の旅を終り、秩父影森驛から汽車に乘つて、その翌日の夜東京に出た。すると其處の友人の許に沼津の留守宅から子供が脚に怪我をして入院してゐる、すぐ歸れといふ電報が三通も來てゐた。ために豫定してゐた友人訪問をも燒跡見物をもすることもなくしてあたふたと歸つて來たのであつた。
この旅に要した日數十七日間、うち三日ほど休んだあとは毎日歩いてゐた。それも兩三囘、ほんの小部分づつ汽車に乘つたほか、全部草鞋の厄介になつたのであつた。
自宅に歸ると細君から苦情が出た、何日には何處に出るといふ風の豫定を作つておいて貰ふか毎日行く先々から電報でも打つて貰はぬことにはまさかの時に誠に困るといふのである。
もつともとも思ふが、私の方でも止むを得なかつた。たとへば千曲川の流域から荒川の流域に越ゆる間など、ほゞ二十里の間に郵便局といふものを見なかつたのだ。
また私は健脚家といふでなく、所謂《いはゆる》登山家でなく冒險家でもないので、あまり無理な旅をしたくない。出來るだけ自由に、氣持よく、自分の好む山河の眺めに眺め入り度いためにのみ出かけて行くので、行くさき/″\どんな所に出會ふか解らぬ間は、なか/\豫定など作れないのである。
それにしてもどうも私には旅を貪《むさぼ》りすぎる傾向があつていけない。行かでもの處へまで、われから強ひて出かけて行つて烈しい失望や甲斐なき苦勞を味ふ事が少なくない。
然しそれも、『斯ういふ所へもう二度と出かけて來る事はあるまい、思ひ切つてもう少し行つて見よう。』といふ概念や感傷が常に先立つてゐるのを思ふと、われながらまたあはれにも思はれて來るのである。
今度の旅では幾つかの湖と、幾つかの高原と、同じ樣に幾つかの森林と、溪谷と、峰と、澤とを見、且つ越えて來た。順序よく行けば十日あれば※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り得る範圍である。それにしてはよく計畫された旅であつた。私の十七日かゝつたのは例の貪慾癖《どんよくへき》と、信州路で三四日友人等と會談してゐたゝめであつた。
机の上に地圖をひろげて見てゐると、まだまだなか/\行つて見度い處が多い。いつも考へる事だが、斯うして見ると日本もなか/\廣大なものだ。どうか出來るならばせめてこの日本中の景色をでも殘る所なく貪り盡して後死にたいものだとしみ/″\思はざるを得ぬのである。
草鞋を穿いて歩く樣な旅行には無論幾多の困難が伴ふ。先づ宿屋の事である。次に飮食物の事である。
今度の旅でも私は二度、原つぱの中の一軒家に泊めて貰つた。二軒ともこの
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