邊の甲州と信州との間の唯一の運送機關になつてゐる荷馬車の休む立場《たてば》の樣な茶店で、一軒は念場が原の眞中、丁度甲信の國境に當つた所であつた。時雨《しぐれ》は降る、日は暮れる、今夜の泊りと豫定した部落まではまだこの荒野の中を二里も行かねばならぬと聞き、無理に頼んで泊めて貰つたのであつた。一軒は野邊山が原のはづれ、千曲川に臨んだ嶮崖のとつぱなの一軒家で、景色は非常によかつた。
 それから妙な※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り合せで裁判所の判檢事、警察署長、小林區署長といふ客の一行から私は二度宿屋を追つ拂はれた、一度は千曲川縁の小さな鑛泉宿で、一度はそれから一日おいて次の日、その千曲の溪の一番の奧にある部落の宿屋で。一夜は一里あまり闇の中を歩いて他に宿を求め、一夜は辛うじて同じ村内に木賃風の宿を探し出し、屋内に設けられた厩《うまや》の二疋の馬を相手に村酒を酌んで冷たい夢を結んだ。別に追つ拂はれる事もないのだが矢張り斯うして長いものに卷かれてゐた方が自分の氣持の上に寧ろ平穩である事を知つて居るからであつた。
 信州では、ことに今度行つた佐久地方では鯉は自慢のものである。成程いゝ味である。がそれも一二度のことで、二度三度と重なると飽いて來る。鑵詰にもいゝ物はなく、海の物は絶無と云つていゝ。
 たゞ難有《ありがた》いのは山の芋と漬物とであつた。私は何處でも先づこの二つを所望した。とろろ汁は出來のよしあしを問はず生來の好物だし、斯うした山國の常として漬物だけには非常な注意が拂つて漬けられてゐるので確かにうまい。味噌漬もいゝが、ことに梅漬がよかつた。この國では(多分この國だけではないかと思ふ)梅を所謂梅干といふ例の皺のよつた鹽鹸《しほから》いものにせず、木にある生《なま》の實のまゝの丸みと張りと固さとを持つた漬け方をするのである。そして同じく紫蘇で美しく色づけられてゐる。これが何處に行つても必ず毎朝のお茶に添へて炬燵《こたつ》の上に置かるゝ。中の核《たね》を拔いて刻んで出す家もあり、粒のまゝの家もある。これをかり/\と噛んで澁茶を啜《すす》るのはまことに私の毎朝の樂しみであつた。殆んど毎朝その容器をば空にした。また、時として酒のさかなにもねだつた。
 田舍の漬物のことで一つ笑ひ話がある。ずつと以前、奧州の津輕に一月ほど行つてゐた事があつた。このあたりの食物の粗末さはまた信州あたりの比ではない。たいていのものをば喰べこなす私も後にはどうしても箸がつけられなくなつた。そして矢張り中で一番うまいのは漬物だといふ事になり、そればかり喰べてゐた。やがて其處を立つて歸る時が來た。土地の青年の、しかも二人までが、見てゐるところ先生はよほど漬物がお好きの樣である、どうかこれをお持ち下さいと云つてかなりの箱と樽とを差出した。眞實嬉しくて厚く禮をいひ、幾度かの汽車の乘換にも極めて丁寧に取り扱つて自宅まで持ち歸つた。そして大自慢で家族たちに勸めたところが、皆、變な顏をしてゐる。そんな筈はないと自分にも口にして見て驚いた。たゞ驚くべき鹹味《からみ》が感ぜらるるのみで、ツイ先日まで味はつてゐた風味はなか/\に出て來ないのである。やがて私は獨りで苦笑した、津輕にゐた時には他の食物に比してこれがうまかつたが、サテ他のものゝ味が出て來るともうこの漬物の權威はなくなつてゐるのであつたのだ。
 酒であるが、因果《いんぐわ》と私はこれと離るゝ事が出來ず、既に中毒性の病氣見たいになつてゐるので殆んどもうその質のよしあしなどを言ふ資格はなくなつてゐると言つていゝ、朝先づ一本か二本のそれが濟まなくてはどうしても飯に手がつけられない。晝の辨當を註文する前に一本のそれを用意する事を忘れない。夕方はなほのことである。
 それも獨りの時はまだいゝ。久し振の友人などと落合つて飮むとなると殆んど常に度を過して折角の旅の心持を壞す事が屡々《しばしば》である。恨めしい事に思ひながら、なほそれを改め得ないでゐる。いゝ年をしながら、といつも耻しく思ふのであるが、いつかは自づとやめねばならぬ時が來るであらう。
 旅は獨りがいゝ。何も右言つた酒の上のことに限らず、何彼につけて獨りがいゝ。深い山などにかかつた時の案内者をすら厭ふ氣持で私は孤獨の旅を好む。

 つく/″\寂しく、苦しく、厭はしく思ふ時がある。
 何の因果で斯んなところまでてく/\出懸けて來たのだらう、とわれながら恨めしく思はるゝ時がある。
 それでゐて矢張り旅は忘れられない。やめられない。これも一つの病氣かも知れない。

 私の最も旅を思ふ時季は紅葉がそろ/\散り出す頃である。
 私は元來紅葉といふものをさほどに好まない。けれど、それがそろ/\散りそめたころの山や谷の姿は實にいゝ。
 谷間あたりに僅かに紅ゐを殘して、次第に峰にかけて
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