渓をおもふ
若山牧水

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)机に凭《よ》つて

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)終点駅|飯能《はんのう》まで

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから3字下げ]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いよ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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疲れはてしこころのそこに時ありてさやかにうかぶ渓のおもかげ
いづくとはさやかにわかねわがこころさびしきときし渓川の見ゆ
独りゐてみまほしきものは山かげの巌が根ゆける細渓の水
巌が根につくばひをりて聴かまほしおのづからなるその渓の音
[#ここで字下げ終わり]

 二三年前の、矢張り夏の真中であつたかとおもふ。私は斯ういふ歌を詠んでゐたのを思ひ出す。その頃より一層こゝろの疲れを覚えてゐる昨今、渓はいよ/\なつかしいものとなつて居る。ぼんやりと机に凭《よ》つてをる時、傍見をするのもいやで汗を拭き/\街中を歩いて居る時、まぼろしのやうに私は山深い奥に流れてをるちひさい渓のすがたを瞳の底に、心の底に描き出して何とも云へぬ苦痛を覚ゆるのが一つの癖となつて居る。
 蒼空を限るやうな山と山との大きな傾斜が――それをおもひ起すことすら既に私には一つの寂寥である――相迫っ[#ここのみ拗音が小さい字「っ」になっている]て、其処に深い木立を為す、木立の蔭にわづかに巌があらはれて、苔のあるやうな、無いやうなそのかげをかすかに音を立てながら流れてをる水、ちひさな流、それをおもひ出すごとに私は自分の心も共に痛々しく鳴り出づるを感ぜざるを得ないのである。

 渓のことを書かうとして心を澄ませてをると、さま/″\の記憶がさま/″\の背景を負うて浮んで来る。福島駅を離れた汽車が岩代《いはしろ》から羽前へ越えようとして大きな峠へかゝる。板谷峠と云つたかとおもふ。汽関車のうめきが次第に烈しくなつて、前部の車室と後部の車室との乗客が殆んど正面に向き合ふ位ゐ曲り曲つて汽車の進む頃、深く切れ込んだ峡間《はざま》の底に、車窓の左手に、白々として一つの渓が流れて居るのをみる。汽車は既によほどの高処を走つて居るらしくその白い瀬は草木の茂つた山腹を越えて遥かに下に瞰下《みおろ》されるのである。私の其処を通つた時斜めに白い脚をひいて驟雨がその峡にかゝつてゐた。
 汽車から見た渓が次ぎ/\と思ひ出さるる。越後から信濃へ越えようとする時にみた渓、その日は雨近い風が山腹を吹き靡けて、深い茂みの葛の葉が乱れに乱れてゐた。肥後から大隅の国境へかからうとする時、その時は冬の真中で、枯木立のまばらな傾斜の蔭に氷つたやうに流れてゐた。大きな岩のみ多い渓であつたとおもふ。
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おしなべて汽車のうちさへしめやかになりゆくものか渓見えそめぬ
たけながく引きてしらじら降る雨の峡《かひ》の片山に汽車はかかれり
いづかたへ流るる瀬々かしらじらと見えゐてとほき峡の細渓
[#ここで字下げ終わり]

 秋の、よく晴れた日であつた。好ましくない用事を抱へて私は朝早くから街の方へ出て行つた。幸ひに訪ぬる先の主人が留守であつた。ほつかりした気になつたその帰り路、池袋停車場へ廻つて其処から出る武蔵野線の汽車に乗つてしまつた。広々した野原へ出て、おもふさまその日の日光を身に浴びたかつたからである。一度途中の駅へおりたのであつたが、其処等の野原を少し歩いてゐるうちに野末に近くみえてをる低い山の姿をみると是非その麓まで行き度くなり、次の汽車を待つてその線路の終点駅|飯能《はんのう》まで行つた。着いた時はもう日暮で、引き返すとすると非常に惶《あわただ》しい気持でその日の終列車に乗らねばならなかつた。それに何といふ事なく疲れてもゐたので、余り気持のよくない乾き切つたやうな宿場町の其処にたうとう泊つてしまつた。運悪くその宿屋に繭買ともみゆる下等な商人共が泊り合せてゐて折角いゝ気持で出かけて来た静かな心をさん/″\に荒らされてしまつた。不愉快な気持で翌朝早く起きて飯の前を散歩に出た。漸く人の起き出た町をそのはづれまで歩いて行つて私は思ひもかけぬ清らかな渓流を見出した。飯能《はんのう》と云へば野原のはての、低い丘の蔭にある宿場だとのみ考へてゐたので、其処にさうした見事な渓が流れてゐやうなどゝは夢にも思はなかつたのである。少なからず驚いた私はあわてながらその渓に沿うて少しばかり歩いて行つた。真白な砂、洗はれた巌、その間を澄み徹つた水が浅く深く流れてゐる。昨夜来の不快をも悉く忘れ果て、急いで宿屋へ帰つて朝飯をしまふなり私はまたすぐ引き返して、すつかり落ちついた心になり、その渓に沿ひながら山際の路を上つて行
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