つた。渓をはさんだ山には黄葉《もみぢ》も深く、諸所に植ゑ込んだ大きな杉の林もあつた。細長い筏を流す人たちにも出会つた。ゆる/\と歩いてその日は原市場で泊り、翌日は名栗まで、その翌日長い峠にかゝると共にその渓は愈々細く、終《つひ》には路とも別れてしまつた。そして落葉の深い峠を越すと其処にはまた新たな渓が流れ出してゐた。
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朝山の日を負ひたれば渓の音冴えこもりつつ霧たちわたる
石越ゆる水のまろみをながめつつこころかなしも秋の渓間に
うらら日のひなたの岩にかたよりて流るる淵に魚あそぶみゆ
早渓の出水のあとの瀬のそこの岩あをじろみ秋晴れにけり
鶺鴒《いしたたき》来てもこそをれ秋の日の木洩日うつる岩かげの淵に
おどろおどろとどろく音のなかにゐて真むかひにみる岩かげの滝
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浅瀬石川《あぜいしがは》といふのは津軽の平野を越えて日本海の十三潟に注ぐ岩木川の上流の一つである。其処きりで鱒《ます》の上るのが止るといふ荒い瀬のつゞく辺に板留といふ小さな温泉場がある。温泉は川の右岸に当る断崖の中腹に二個所とその根がたの川原に接した所に一個所と、一二丁づゝの間隔を置いて湧いて居る。私の好んで入つたのはその断崖の根の温泉で、入口には蓆《むしろ》が垂らしてあるばかり、板の壁はあらかた破れて湯に入りながら渓の瀬がみえてゐた。或る日の午後ぼんやりと独りで浸つてゐると次第に湯がぬるんで来た。気がつくと板壁の根の方から渓の水がひそかに流れ込んで来てゐるのである。四月の廿日前後であつたが、その日あたりから急に雪が解け始めたらしく、渓の水の濁つて来るのは解つてゐたが斯う急に増さうとは思はなかつた。呆気《あつけ》にとられて裸体のまゝ小屋の外に出てみると、赤黒く濁つた水がほんの僅かの間に全く川原を浸して流れて居る。丁度其処の対岸の木立のなかに――そのあたりにも水が流れ及んでゐた――網を提げた男が一人、あちこちと歩いてゐる。雪解を待つて鱒は上つて来るといふ事を聞いてゐたが、彼はいまそれを狙《ねら》つてゐるのらしい。やがて、また一人あらはれた。
雪が解けそめたとは云へ、四辺《あたり》の山は勿論ツイその川岸からまだ真白に積み渡してをるのである。その雪と、濁つた激しい渓と、珍しく青めいたその日の日光とのなかに黙々として動いてゐるこの鱒とりの人たちがいかにも寂しいものに私の眼には映つた。遥かな渓を思ふごとに私の心にはいつもそれら寂しい人たちの影が浮んで来る。
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雪解水《ゆきげみづ》岸にあふれてすゑ霞む浅瀬石川《あぜいしがは》の鱒とりの群
むら山の峡より見ゆるしらゆきの岩木が峰に霞たなびく
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相模三浦半島のさびしい漁村に二年ほど移り住んでゐた事があつた。小さな半島に相応した丘陵の間々に小さな渓が流れてをる。一哩も流れて来れば直ぐ汐のさしひきする川口となるといふやうな渓だ。それでも私はその渓と親しむことを喜んだ。川に棲むとも海に棲むともつかぬやうな小さな魚を釣る事も出来た。
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わがこころ寂しき時しいつはなく出でて見に来るうづみ葉の渓
わが行けば落葉鳴り立ち細渓を見むといそげるこころ騒ぐも
渓ぞひに独り歩きて黄葉《もみぢ》見つうす暗き家にまたも帰るか
冬晴の芝山を越えそのかげに魚釣ると来れば落葉散り堰《せ》けり
芝山のあひのほそ渓ほそほそとおち葉つもりて釣るよしもなき
こころ斯く静まりかねつなにしかも冬渓の魚をよう釣るものぞ
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みなかみへ、みなかみへと急ぐこゝろ、われとわが寂しさを噛みしむるやうな心に引かれて私はあの利根川のずつと上流、わづか一足で飛び渡る事の出来る様に細まつた所まで分け上つたことがある。
狭い両岸にはもうほの白く雪が来てゐた。断崖の蔭の落葉を敷いて、ちょろ/\、ちょろ/\と流れてゆくその氷の様になめらかな水を見、斑らな新しい雪を眺めた時、何とも言へぬこゝろに私は身じろぎすら出来なかつた事を覚えてをる。いま思ひ出しても神の前にひざまづく様な、ありがたい尊い心になる。水のまぼろし、渓のおもかげ、それは実に私の心が正しくある時、静かに澄んだ時、必ずの様に心の底にあらはれて私に孤独と寂寥のよろこびを与へて呉れる。
渓の事はまだ沢山書き度い。別しても自分の生れた家のすぐ前を流れてゐる故郷の渓の事など。更にまたこれからわけ入つて見たいと思ふ其処此処の河の上流のことなど。
底本:「日本の名随筆33 水」作品社
1985(昭和60)年7月25日第1刷発行
底本の親本:「若山牧水全集 第六巻」雄鶏社
1958(昭和33)年6月
※「渓をおもふ」は1920年の発表で翌年刊行の「静かなる旅をゆきつつ」に収められた。
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