熊野奈智山
若山牧水
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)母子《おやこ》づれの
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)先年|土耳古《トルコ》軍艦の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ギイ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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眼の覺めたままぼんやりと船室の天井を眺めてゐると、船は大分搖れてゐる。徐ろに傾いては、また徐ろに立ち直る。耳を澄ましても濤も風も聞えない。すぐ隣に寢てゐる母子《おやこ》づれの女客が、疲れはてた聲でまた折々吐いてゐるだけだ。半身を起して見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]すと、室内の人は悉くひつそりと横になつて誰一人煙草を吸つてる者もない。
船室を出て甲板に登つてみると、こまかい雨が降つてゐた。沖一帶はほの白い光を包んだ雲に閉されて、左手にはツイ眼近に切りそいだ樣な斷崖が迫り、浪が白々と上つてゐる。午前の八時か九時、しつとりとした大氣のなかに身に浸む樣な鮮さが漂うて自づから眼も心も冴えて來る。小雨に濡れて一層青やかになつた斷崖の上の木立の續きに眼をとめてゐると、そのはづれの岩の上に燈臺らしい白塗の建物のあるのに氣がついた。
「ハヽア、此處が潮岬だナ。」
と、先刻《さつき》から見てゐた地圖の面がはつきりと頭に浮んで來た。尚ほ見てゐると燈臺の背後は青々した廣い平原となつて澤山の牛が遊んで居る。牧場らしい。
小雨に濡れながら欄干に捉《つかま》つてゐると、船は正しくいまこの突き出た岬の端を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてゐるのだ。舵機を動かすらしい鎖がツイ足の爪先を斷えずギイ/\、ゴロ/\と動いて、眼前の斷崖や岩の形が次第に變つてゆく。そして程なくまた地圖で知つてゐた大島の端が右手に見えて來た。
「此處が日本の南の端でナ。」
氣がつかなかつたが私の側に一人の老人が來て立つてゐた。そして不意に斯う、誰にともなく(と云つて附近には私一人しかゐなかつた)言ひかけた。
「左樣《さう》なりますかネ、此處が。」
「左樣だネ、此處が名高い熊野の潮岬で、昔から聞えた難所だよ。」
日本の南の端、臺灣や南洋などの事の無かつた昔ならばなるほど此處がさうであつたかも知れぬと、そんな事を考へてゐると老人は更に種々《いろいろ》と話し出した。丁度此處には沖の大潮(黒潮のことだと思つた)の流がかかつてゐるので、通りかかつた他國者の鰹船などがよく押し流された話や、鰹の大漁の話、先年|土耳古《トルコ》軍艦の沈んだのも此處だといふことなど。
かなりの時間をかけてこの大きな岬の端を通り過ぎると、汽船の搖は次第に直つて來た。そして程なく串本港に寄り、次いで古座港に寄つて勝浦に向つた。
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船にしていまは夜明けつ小雨降りけぶれる崎の御熊野《みくまの》の見ゆ
日の岬潮岬は過ぎぬれどなほはるけしや志摩の波切《なきり》は
雨雲の四方《よも》に垂りつつかき光りとろめる海にわが船は居る
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勝浦の港に入る時は雨はなほ降つてゐた。初め不思議に思つた位ゐ汽船は速力をゆるめて形の面白い無數の島、若しくは大小の岩の間をすれすれに縫ひながら港へ入り込んで行つた。その島や岩、またはその間に湛へた紺碧の潮の深いのに見惚れながら、此處で降りる用意をするのも忘れて甲板に突つ立つてゐると、ふと私は或事を思ひ出した。そして心あての方角を其處此處と見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]してゐると、果してそれらしいものが眼に入つた。深く閉した雲の下に山腹が點々と表れてその殆んど眞中あたりに、まことに白々として見えて居る。奈智の瀧である。勝浦の港に入る時には氣をつけよ、側で見るより寧ろいいかも知れぬからと、曾て他から注意せられて來たその奈智の大瀧である。なるほどよく見える。そして思つたよりも山の低いところにその瀧は懸つてゐるが、何といふことなく難有《ありがた》いものを見る樣な氣持で、私は雨に濡れながら久しくそれに見入つてゐた。
入つて見れば此處の港は意外な廣さを持つて居る。双方から蜒曲して中の水を抱く樣に突き出た崎の先には、例の島や岩が樹木の茂りを見せながら次々と並んで、まるで山中の湖水の樣な形になつて居る。そして深さもまた深いらしく、次第に奧深く入り込んだ汽船はたうとう棧橋に横づけになつてしまつた。熊野一の港だと聞いたがなるほど道理《もつとも》だと思ひながら、洋傘《かうもり》をさし、手提をさげてぼんやりと汽船から降りた。降りたには降りたが、其からさきの豫定がまだ判然と頭のなかに出來てゐなかつた。そして子供らしい胸騷ぎを覺えながら、兎も角もぶら/\と海岸沿ひに歩き出した。雨は急に強く、洋傘がしきりに漏る。街はまた意外に大きくも賑かでもないらしく、少し歩いてゐるうちに間もなく其處等中魚の臭《にほひ》のする漁師町に入り込んだ。鰹の大漁と見え、到るところ眼の活きた青紫の鮮かなのが轉がしてある。或所ではせつせと車に積み、或所では大きな釜に入れて※[#「火+(世/木)」、第3水準1−87−56]《ゆ》でてゐた。
幾ら歩いてゐても際《きり》が無いので、幸ひ眼に入つた海の上にかけ出しになつてゐる茶店に寄つて、そこにも店さきに投《はう》つてある鰹を切つて貰ひ、一杯飮み始めた。濡れた手提から地圖を引き出して茶店の主人を相手に奈智や新宮への里程などを訊いてゐるうちに、私は不圖《ふと》この勝浦の附近に温泉の記號のつけてあるのを見出した。主人に訊くと、彼は窓をあけてこの圓い入江のあちこちを指さしながら、彼處に見えるのが何、こちらに見えるのが何、いま一つ向うの崎を越すと何といふのがあるといふ。斯う鼻のさきに幾つとなく温泉のあることを聞いて何といふ事なく私は嬉しくなつた。そして立つて窓際に主人と竝びながら其處此處と眼を移して、丁度そこから正面に見える彼處は何といふのだと訊くと、赤島だといふ。ひた/\に海に沿うた木立の深げな中に靜かに家が見えて居る。行くなら船で渡るのだが、呼んで來てやらうかといふので早速頼んで其處に行くことにきめた。
小さな船で五六分間も漕がれてゐると、直ぐに着いた。森閑《しんかん》とした家の中から女中が出て來て荷物を受取る。何軒もあるのかと思つてゐたらこの家ただ一軒しか無いのであつた。海に面した二階の一室に通されて、やれ/\と腰を下すと四邊《あたり》に客も無いらしくまつたく森《しん》としてゐる。湯はぬるいがまた極めて靜かで、湯槽《ゆぶね》の縁に頭を載せてゐると、かすかに浪の寄る音が聞えて來る。湯から出て庭さきの浪打際に立つてゐると、小さな魚が無數にそこらに泳いでゐる。磯魚の常で何とも云へぬ鮮麗な色彩をしたのなども混つてゐる。藻がかすかに搖れて、それと共にその魚の體も搖れてゐる樣だ。雨は先刻《さつき》から霽《あが》つてゐたが、對岸の山から山へかけて、白雲も次第に上に靡いて、此處からもまた例の大きな瀧が望まれた。
凪ぎ果てた港には發動船の走る音が斷間なく起つて居る。みな鰹船で、この二三日とりわけても出入が繁いのださうだ。夕方、特に注文して大ぎりにした鰹を澤山に取り寄せた。そして女中をも遠ざけて唯一人、いかにも遠くの旅さきの温泉場に來て居る靜かな心になつて、夜遲くまでちび/\と盃を嘗めてゐた。
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したたかにわれに喰《くは》せよ名にし負ふ熊野が浦はいま鰹時
熊野なる鰹の頃に行きあひしかたりぐさぞも然《し》かと喰《を》せこそ
いまは早やとぼしき錢のことも思はず一心に喰へこれの鰹を
むさぼりて腹な破りそ大ぎりのこれの鰹をうまし/\と
あなかしこ胡瓜もみにも入れてあるこれの鰹を殘さうべしや
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六月三日、久しぶりにぐつすりと一夜を睡つて眼を覺すとまた雨の音である。戸をあけてみると港内一帶しら/″\と煙り合つて、手近の山すら判然とは見わかない。たゞ發動機の音のみ冴えてゐる。
朝の膳にもまた酒を取り寄せて今日は一日この雨を聞きながらゆつくりと休むことにした。東京の宅を立つたのが先月の八日、二週間ほどの豫定で出て來た旅が既うかれこれ一月に及ぼうとしてゐるのである。京都|界隈《かいわい》から大阪奈良初瀬と※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて紀州に入り込んだ時はかなり身心ともに疲れてゐた。それに今までは到る所晝となく夜となく、歌に關係した多勢の人、それも多くは初對面の人たちに會つてばかり歩いて來たので心の靜まるひまとては無かつた。それが昨夜、和歌の浦からこの熊野※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りの汽船に乘り込んで漸く初めて一人きりの旅の身になつた樣な心安さを感じて、われ知らずほつかりとしてゐた所である。初めの豫定では勝浦あたりに泊る心はなく、汽船から直ぐ奈智に登つて、瀞《とろ》八丁に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて新宮に出て、とのみ思うてゐた。が、斯うして思ひがけぬ靜かな離れ島の樣な温泉などに來てみるとなか/\豫定通りに身體を動かすのが大儀になつてゐた。それにこの雨ではあるし、寧ろ嬉しい氣持で一日を遊んでしまふことに決心したのである。
午前も眠り、午後も眠り、葉書一本書くのが辛くてゐるうちに夜となつた。雨は終日降り續いて、夜は一層ひどくなつた。客は他に三四人あつたらしいが、靜けさに變りはない。
翌日も雨であつた。また滯在ときめる。旅費の方が餘程怪しくなつてゐるが、此處に遊んだ代りに瀞八丁の方を止してしまふことにした。午後は晴れた。釣竿を借りて庭さきから釣る。一向に釣れないが、二時間ほども倦きなかつた。澄んだ海の底を見詰めてゐると實に種々な魚が動いてゐるのだ。
六月五日、また降つてゐた。
でも、今日こそは立たうと思つてゐた。瀞《とろ》八丁を止すついでに奈智の瀧も此處から見るだけに留めて置かうかとも思つたが、幾らか心殘りがあるので思ひ切つて出かける。船頭の爺さんに頼んで汽船から見て來た港口の島々の間の深く湛へたあたりを漕いで※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]る。見れば見るほど、景色のすぐれた港だと思はれた。そして對岸の港町に上つて停車場へ行つた。雨が烈しいので、袴も羽織も手提も一切まとめて其處に預けて、勝浦新宮間に懸つてゐる輕便鐵道に乘り込んだ。間もなく二つ目の驛、奈智口といふので下車。
雨はまるで土砂降に降つてゐた。幾ら覺悟はしてゐてもこれでは餘にひどいので少し小降になるまで待つてから出かけようと停車場前の宿屋に入つた。そして少し早いが晝食を註文してゐると、突然一人男が奧から馳け出して來て私の前に突つ立つた。その眼は妙に輝いて、聲まで逸《はず》んでゐる。貴下《あなた》は東京の人だらう、と言ひながら頭の頂上《てつぺん》から爪先まで見上げ見下してゐる。何氣なく左樣だと答へると、何日にあちらを立つたと訊く。ありのままに答へると、さもこそと云はむばかりに獨り合點して更に何處から何處を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてゐたかと愈々勢込んで來た。そのうちに奧からも勝手からもぞろぞろと家族らしいもの女中らしいものが出て來た。その上、先刻《さつき》から店さきに休んでゐた同じく奈智行らしい一行の人たちも立つてこちらを覗き込んで來た。私は何とも知れぬ氣味惡さを感じながら無作法に自分の前に突つ立つてまじ/\と顏を覗き込んでゐる痩せた、脊の高い、眼の險しい四十男を改めて見返さざるを得なかつた。そして簡單に京都大阪奈良と答へてゐると、急に途中を遮つて、高野山に登つたらうと言ふ。まことに息を逸ませてゐる。私はもう素直に返事するのが不快になつた。で、左樣《さう》だ、と言つた。實は其處には登る筈ではあつたが登らずに來たのであつた。それを聞くとその男は愈々安心したと
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