いふ風に、脊を延ばして初めて氣味の惡い微笑を漏らしながら、左樣《さう》でせう、確かに左樣だらうと思つた、サ、何卒《どうぞ》お二階にお上り下さい、實は東京からあなたを探《たづ》ねていらした方があるのです、と言ふ。今度は私の方で驚いた。そして思はず立ち上つた。
「え、誰だ、何といふんです、……僕は若山と云ふのだが。」
「へゝえ、誰方《どなた》ですか、もう直ぐこれへ歸つておいでになりますで、……實はあなたを探して一先づ瀧の方へおいでになりましたので、もう直ぐこれへお歸りで御座いますから、まア、どうぞお二階へ。」
といふ。
この正月の事であつた、私は伊豆の東海岸を旅行して二日の夜に或る温泉場へ泊つた。すると、同じその夜、その土地の、同じ宿屋の、しかも私と襖一重距てた室へ私の友人の一人が泊り合せて、さうして二人ともそれを知らずに、翌日それ/″\分れ去つた事があつたのだ。この番頭らしい怪しき男の今までの話を聞いてゐて、端なく思ひ出したのはその事である。そして私がこの頃この熊野を通つて、奈智へ登るといふ事は東京あたりの親しい者の間には前から知れてゐた事實である。誰か氣まぐれに後から追つて來て、今日それが此處を通つたかも知れぬといふ事は強《あなが》ちに否定すべき譯に行かなかつた。まして此場の異常に緊張した光景は確かにそれを思はするに充分であつた。
「え、誰です、何といふ男が來ました?」
あれかこれかと私は逸速くさうした事をしさうな友人を二三心に浮べながら、もう眼の前にそれらの一人の笑ひ崩るる顏を見る樣な心躍りを感じて問ひ詰めた。
今度は相手の方がすつかり落ち着いてしまつた。環《わ》を作つて好奇の眼を輝かせてゐる女中や家族や客人たちをさも得意げに見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]して、兎に角此處では何だから二階にあがれ、と繰返しながら、一段聲を落して、
「東京では皆さんがえらく御心配で、ことに御袋樣などはたとへ何千圓何萬圓かかつてもあなたを探し出す樣にといふわけだ相で……」
と言ひ出した。
此處まで聞いて私は再びまた呆氣にとられた。何とも言へぬ苦笑を覺えながら、
「さうか、それでは違ふよ、僕は東京者には東京者だが、そんな者ぢアない、人違ひだ。」
と馬鹿々々しいやら、また何かひどくがつかりした樣な氣持にもなつて再び其處へ腰掛けやうとすると、なか/\承知しない。
「いえもうそれは種々な御事情もおありで御座いませうが、……實は高野山から貴下のお出しになつた葉書で、てつきりこちらへおいでになる事も解つてゐましたので、ちやんともうその人相書まで手前の方には解つてゐますので……」
「ナニ、人相書、それなら直ぐその男かどうかといふ事は解りさうなものぢアないか。」
「それがそつくり貴下と符合致しますので、もうお召物の柄まで同じなのですから、……兎に角お二階で暫くお待ち下さいまし、瀧の方へおいでになつた方々にも固く御約束をしておいた事ですから此處でお留め申さないと手前の手落になります樣なわけで……」
私はもうその男に返事をするのを見合せた。そして其處へ來て立つてゐる女中らしいのに、
「オイ、如何した飯は、酒は?」
と言ふと、彼等は惶てて顏を見合せた。先刻《さつき》からの騷ぎでまだ何の用意にもかかつてゐないのだ。
「ええ、どうぞ御酒でもおあがりになりながら、ゆつくり二階でお待ち下さいます樣に……」
と、その男は終《つひ》に私の手を取つた。
先刻《さつき》からむづ/\し切つてゐた私の肝癩玉はたうとう破裂した。
「馬鹿するな、違ふ。」
と、言ふなり私は洋傘《かうもり》を掴んで其處を飛び出した。そしてじやア/\降つてゐる雨の中を大股に歩き始めた。軒下まで飛んでは出たが流石にその男も其處から追つて來る事はしなかつた。
幸に私の歩き出した道は奈智行の道であつた。何しろ恐しい雨である。熊野路一帶は海岸から急に聳え立つた嶮山のために大洋の氣を受けて常に雨が多いのださうだが、今日の雨はまた別だ。幾らも歩かないうちに全身びしよ/\に濡れてしまつた。先刻からの肝癪で夢中で急いではゐるものの、程なく疲れた。そして今度は抑へ難い馬鹿々々しさ、心細さが身に浸み込んで來た。矢張り來るのではなかつた、赤島の温泉場から遠望しておくだけに留めておけばよかつた、斯んな状態で瀧を見たからとて何になるものぞ、いつそ此處からでも引返さうか、などとまで思はれて來た。赤島で三晩ほど休んでゐる間に幾らか身體の疲勞も除《と》れて來た。この調子で奈智へ登つて、其處の山上にあるといふ宿屋に籠つて青葉の中の瀧を見てゐたら、それこそどんなに靜かな心地になれるだらう、それでこそ遙々出て來た今度の旅の難有さも出るといふものだ、と種々な可懷しい空想を抱いて雨の中を出かけて來たのだが、まだ山にかかりもせぬ前から先刻の樣な騷ぎに出會つて、靜かな心も落ちついた氣分もあつたものではなかつたのである。半分は泣く樣な氣持でわけもなく歩いてゐると、後から馬車が來た。そして馬車屋が身近くやつて來て乘れと勸める。何處行きだと訊くと奈智の瀧のツイ下まで行くといふ。直ぐ幌を上げて乘り込むと驚いた。先刻の宿屋に休んでゐた三人連の一行が其處に乘り込んでゐたのだ。
向うでは前から私だと知つてゐたらしく、お互ひにそれらしい顏を見合せて默り込んだ。平常《いつも》ならば私も挨拶の一つ位ゐはする所であるが、彼等の好奇に動く顏を見るとまた不愉快がこみ上げて來て目禮一つせず、默つたまま、隅の方に腰を下した。四方とも黒い油紙で包み上げた馬車の中は不氣味な位ゐ暗かつた。そして泥田の樣な道を辿つてゐるので、その動搖は想像のほかであつた。四五丁も行つたと思ふころ、馬車屋が前面の御者臺の小さなガラス窓から振返つて私あてに聲をかけた。この降るなかをお詣りかと訊くのだ。奈智と云へば私は唯だ瀧としか聯想しなかつたが、其處には熊野|夫須美《ふすみ》神社といふ官幣か國幣の大きな神社があり、西國三十三ヶ所第一の札所である青岸渡寺とい古刹もあるのである。併し、御者のわざ/\斯う訊いたのは決して言葉通りの意味でないことを私は直ぐ感じた。此奴、驛前の宿屋で聞いて來たナ、と思ひながら慳貪《けんどん》に、
「イヤ、瀧だ。」
と答へた。
「瀧ですか、瀧は斯んな日は危う御座んすよ。」
と言ふ。にや/\してゐる顏がその背後《うしろ》から見える樣だ。
暫く沈默が續くと、今度は私と向ひ合ひに乘つてゐる福々しい老人が話しかけた。このお山は初めてか、といふ樣なことから、今日は何處から來たか、お山から何處へ行くかといふ樣な事だ。言葉短かにそれに返事をしてゐると、他の二人も談話の中に加はつて來た。これは老人とは違つた、見るからに下卑た中年の夫婦者である。私はよく/\の事でなければ返事をせず、一切默り込むことにしてゐた。すると次第に彼等同志だけで話が逸《はず》んで來て、後には御者もその仲間に入つた。多くは瀧が主題で、この近來どうも瀧に飛ぶ者が多くて、そのため村では大迷惑をしてゐる、瀧壺の深さが十三尋もあつて、しかもその中は洞になつてゐると見え、一度飛んだ者は決して死骸が浮んで來ない、所詮駄目だと解つてはゐるものの村ではどうしても其儘《そのまま》捨てておくわけにゆかぬ、村の青年會は此頃殆んどその用事のみに働いてゐる位ゐだ、況《ま》して斯ういふ田植時にでも飛び込まれやうものならそれこそ泣顏《なきづら》に蜂だ、といふ風のことをわざとらしい高聲で話してゐるのだ。續いて近頃飛んだそれぞれの人の話が出た。大阪の藝者とその情夫、和歌山の呉服屋、これはまた何のつもりで飛んだか、附近の某村の漁師、とそれ/″\自殺の理由などまで語り出される頃は馬車の内外とも少からぬ緊張を帶びて來た。今まで私と同じくただ默つて聞いてゐた老人まで極めて眞面目な顏をして斯ういふ事を言ひ出した、人が自分から死ぬといふのは多くは魔に憑《つ》かれてやる事だ、だから見る人の眼で見るとさうした人の背後に隨いてゐる死靈の影がありありと解るものだ、と。
私は次第に苦笑の心持から離れて氣味が惡くなつて來た。何だか私自身の側にその死神でも密著《くつつ》いてゐる樣で、雨に濡れた五體が今更にうす寒くなつて來た。をり/\私の顏を竊《ぬす》み見する人たちの眼にも今までと違つた眞劍さが見えて來た樣だ。濡れそぼたれて斯うして坐つてゐる男の影が彼等の眼にほんとにどう映つてゐるであらうと思ふと、私自身笑ふにも笑はれぬ氣がして來たのである。
氣がつけば道は次第に登り坂になつてゐた。雨は幾らか小降りになつたが、心あての方角を望んでも唯だ眞白な雲が閉してゐるのみで、山の影すら仰がれない。小降りになつたを幸ひに出て來たのだらう、今まで氣のつかなかつた田植の人たちが其處等の段々田に澤山見えて來た。所によつては夏蜜柑の畑が見えて、黄色に染つた大きな果實が枝のさきに重さうに垂れてゐる。
程なく馬車は停つた。やれ/\と思ひながら眞先きに飛び降りると、成程いかにも木深い山がツイ眼の前に聳えて居る。瀧の姿は見えないが、そのまま山に入り込んでゐる大きな道が正しくその方角についてゐるものと思はれたので、私は賃金を渡すと直ぐ大股に歩き始めた。すると、他の客の賃金を受取るのもそこ/\にして馬車屋が直ぐ私のあとに隨いて來た。
「何處へ行くんだ?」
私は訊いた。
「へへえ、瀧まで御案内致します。」
「いいよ、僕は一人で行ける。」
「へへえ、でもこの雨で道がお危うございますから……」
「大丈夫だ、山道には馴れてる。」
「それでも……」
「オイ、隨いて來ても案内料は出さないよ。」
「いいえ、滅相な、案内料などは……」
勝手にしろ、と私も諦めて其儘急いだ。が、たうとう埓もない事になつたと思ふと、もう山の姿も雲のたたずまひも眼には入らず、折角永年あこがれてゐたその山に來ても、半ば無意識に唯だ脚を急がせるのみであつた。
「見えます、彼處に。」
馬車屋の聲に思はず首を上げて見ると、いかにも眞黒に茂つた山の間にその瀧が見えて來た。流石に大きい。落口は唯だ氷つた樣に眞白で、ややに水の動く樣が見え、下の方に行けば次第に廣くなつて霧の樣に煙つてゐる。われともなく私は感嘆の聲をあげた。そして側の馬車屋に初めて普通の、人間らしい聲をかけた。
「何丈あるとか云つたネ、あの高さは?」
「八十丈と云つてゐますが、實際は四十八丈だとか云ひます。」
「なアるほど、あいつに飛んだのでは骨も粉もなくなるわけだ。」
言ひながら、私は大きな聲を出して笑つた、胸の透く樣な、眞實に何年ぶりかに笑ふ樣な氣持をしながら。
その瀧の下に出るにはそれから十分とはかからなかつた。凄く轟く水の音をツイ頭の上に聞きながら深い暗い杉の木立の下を通ると、兩側に澤山大小の石が積み重ねてある。馬車屋はそれを指して、みな瀧に飛んだ人の供養のためだと云ふ。
「では一つ僕も積んで置くかナ。」
また大きな聲で笑つたが、その聲はもう殆んど瀧のために奪はれてゐた。
瀧を眞下から正面に見る樣な處に小屋がけがしてあつて、其處から仰ぐ樣になつてゐる。平常《いつも》は茶店なども出てゐるらしいが、今日は雨で誰も出てゐない。二三日來の雨で、瀧は夥しく増水してゐるのだ相だ。大粒の飛沫が冷かに颯々と面を撲つ。ぢいつと佇んで見上げてゐると、唯だ一面に白々と落ち下つてゐる樣で、實は團々になつた大きな水の塊が後から後からと重り合つて落ちて來てゐるのである。時には岩を裂く樣に鋭く近く、時には遠く渡つてゆく風の樣なその響に包まれながら、茫然見て居れば次第に山全體が動き出しても來る樣で、言ひ難い冷氣が身に傅はつて來る。
「これで、瀧壺まではまだ二丁からあります。」
同じくぼんやりと側に添うて立つてゐた馬車屋はいふ。それを聞くと私の心には一つの惡戲氣が浮いて來た、私が其處まで行くとするとこの馬車屋奴はどうするであらうと。
私は裾を高々と端折つて下駄を脱ぎ洋傘《かうもり》をも其處に置いて瀧壺の方へ岩道を攀《よ》ぢ始めた。案の如く彼は一寸でも私の側か
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