ら離れまいとして惶てて一緒にくつ着いて來た。苦笑しながら這ふ樣にして岩から岩を傳はらうとしたが、到底それは駄目であつた。殆んど其處等一帶が瀧の一部分を成してゐるかの如く烈しい飛沫が飛び散つて、それと共にともすれば岩から吹き落しさうにして風が渦卷いてゐるのである。それでも半分ほどは進んだが、たうとう諦めてまた引き返した。安心した樣な、當の外れたやうな顏をして馬車屋もまた隨いて來た。私はこの男が可哀相になつた。はつきり人違ひの事を知らせて、酒の一杯も飮ませてやらうなどと思ひながら、もとの所に戻つて來ると、先刻《さつき》の馬車の連中が丁度其處へやつて來た。お寺の方へ先に行く筈であつたが、私達が如何してゐるかを見るためにこちらを先にしたものかも知れぬ。驚いた樣に私達を見て笑つてゐる。私は再び彼等と一緒になる事を好まなかつたので、直ぐ其處を立ち去らうとした。そして馬車屋を呼んだが、彼は何か笑ひながら向うの連中と一緒になつてゐて一寸返事をしただけであつた。
少し道に迷つたりして、やがてお寺のある方へ登つて行つた。何しろ腹は空いて五體は冷えてゐるので、お寺よりも宿屋の方が先であつた。その門口に立ちながら、一泊させて呉れと頼むと、其處の老婆は氣の毒さうな顏をして、此節はお客が少いのでお泊りの方は斷つてゐる、まだ日も高いしするからこれからまだ何處へでも行けませう、といふ。實は私自身強ひて泊る氣も失《な》くなつてゐた時なので、それもよからうと直ぐ思ひ直した。そして、それでは酒を一杯飮ませて呉れぬかといふと、お肴は何もないが酒ならば澤山あります、といひながらその仕度に立たうとして彼女は急に眼を輝かせた。
「旦那は東京の方ではありませんか?」
オヤ/\と私は思つた。それでも既う諦めてゐるので從順に左樣《さう》だよと答へて店先へ腰を下した。
「それなら何卒お上り下さい、お二階が空いて居ります、瀧がよく見えます。」
といふ。
それも可からうと私は素直に濡れ汚れた足袋を脱いだ。その間にまた奧からも勝手からも二三の人が飛んで來た。
二階に上ると、なるほど瀧は正面に眺められた。坂の中腹に建てられたその宿屋の下は小さい竹藪となつてゐて、藪からは深い杉の林が續き、それらの上に眞正面に眺められるのである。遠くなり近くなりするその響がいかにも親しく響いて、眞下で仰いだ姿よりもこの位ゐ離れて見る方が却つて美しく眺められた。切りそいだ樣な廣い岩層の斷崖に懸つてゐるので、その左右は深い森林となつてゐる。いつの間に湧いたのか、その森には細い雲が流れてゐた。
がつかりした樣な氣持で座敷に身體を投げ出したが、寢てゐても瀧は見える。雲は見る/\うちに廣がつて、間もなく瀧をも斷崖をも宿の下の杉木立をも深々と包んでしまつた。瀧の響はそれと共に一層鮮かに聞えて來た。
やがて酒が來た。襖の蔭から覗き見をする人の氣勢《けはひ》など、明らかに解つてゐたが、既うそんな事など氣にならぬほど、次第に私は心の落ち着くのを感じた。兎に角にこの宿屋だけはかねてから空想してゐた通りの位置にあつた。これで、今朝の事件さへ無かつたならば、どんなに滿足した一日が此處で送られる事だつたらうと、そぞろに愚痴まで出て來るのであつた。
一杯々々と重ねてゐる間に、雲は斷えず眼前に動いて、瀧は見えては隱れ、消えては露《あらは》れてゐる。うつとりして窓にかけた肱のさきには雨だか霧だか、細々と來て濡れてゐるのである。心の靜かになつて來ると共に、私はどうもこのままこの宿を去るのが惜しくなつた。此儘此處に一夜でも過して行つたら初めて豫《かね》てからの奈智山らしい記憶を胸に殘して行くことが出來るであらう、今朝からのままでは餘りに悲慘である、などと思はれて來た。折から竹の葉に音を立てて降つて來た雨を口實に、宿の嫁らしい若い人に頼んでみた、特に今夜だけ泊りを許して貰へまいかと。案外に容易くその願ひは聞屆けられた。そして夕飯の時である、その嫁さんは私の給仕をしながらさも/\可笑し相に笑ひ出して、今日は旦那樣は大變な人違ひをせられておゐでになりました、御存じですか、と言ひ出した。
「ホ、人違ひといふ事がいよ/\解つたかネ、實はこれ/\だつたよ。」
と朝からの事を話して笑ひながら、
「一體その人相書といふのはどんなのだね?」
と訊くと、齡《とし》は二十八歳で、老《ふ》けて見える方、(私は三十四歳だが、いつも三つ四つ若く見られる)身長五尺二寸(私は一寸二三分)、着物はセルのたて縞(丁度私もセルのたて縞を着てゐた)、五月六日に東京を(私は五月八日)出て暫く音信も斷え、行先も不明であつたが、先日高野山から手紙をよこし、これから紀州の方へ行つてみるつもりだといふ事と二度とはお目にかかれぬだらうといふ事とが認めてあつたのだ相だ。洋酒屋の息子とかで、家はかなり大きな店らしく、その手紙と共に大勢の追手が出て、その一隊が高野からあと/\と辿つて今日一度この山へ登つて來、諸所を調べた末一度下りて行つたが、驛前の宿屋で今朝の話を聞いて夕方また登つて來たのだ相である。
「旦那樣が御酒をお上りになつてる時、其處の襖の間から覗いて行つたのですよ。」
といふ。
「兎に角ひどい目に會つたものだ。」
と笑へば、
「何も慾と道づれですからネ。」
といふ。
「え、……?」
私がその言葉を不審がると、
「アラ、御存じないのですか、その人には五十圓の懸賞がついてゐるのですよ。」
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末ちさく落ちゆく奈智の大瀧のそのすゑつかたに湧ける霧雲
白雲のかかればひびきうちそひて瀧ぞとどろくその雲がくり
とどろ/\落ち來る瀧をあふぎつつこころ寒けくなりにけるかも
まなかひに奈智の大瀧かかれどもこころうつけてよそごとを思ふ
暮れゆけば墨のいろなす群山の折り合へる奧にその瀧かかる
夕闇の宿屋の欄干《てすり》いつしかに雨に濡れをり瀧見むと凭れば
起き出でて見る朝山にしめやかに小雨降りゐて瀧の眞白さ
朝凪の五百重《いほへ》の山の靜けきにかかりて響く奈智の大瀧
雲のゆき速かなればおどろきて雲を見てゐき瀧のうへの雲を
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その翌日、山を降りて再び勝浦に出た。そしてその夜志摩の鳥羽に渡るべく汽船の待合所に行つて居ると、同じく汽船を待つらしい人で眼の合ふごとにお辭儀をする一人の男が居る。見知らぬ人なので、此處でもまた誰かと間違へてゐると思ひながら、やがて汽船に乘り込むとその人と同室になつた。船が港を出離れた頃、その人は酒の壜を提げていかにもきまりの惡さうなお辭儀をしい/\私の許へやつて來た。
その人が、昨日の夕方、奈智の宿屋で襖の間から私を覗いて行つた人であつた。
底本:「若山牧水全集 第五卷」雄鷄社
1958(昭和33)年8月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:kamille
校正:林 幸雄
2004年9月25日作成
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