かね》てからの奈智山らしい記憶を胸に殘して行くことが出來るであらう、今朝からのままでは餘りに悲慘である、などと思はれて來た。折から竹の葉に音を立てて降つて來た雨を口實に、宿の嫁らしい若い人に頼んでみた、特に今夜だけ泊りを許して貰へまいかと。案外に容易くその願ひは聞屆けられた。そして夕飯の時である、その嫁さんは私の給仕をしながらさも/\可笑し相に笑ひ出して、今日は旦那樣は大變な人違ひをせられておゐでになりました、御存じですか、と言ひ出した。
「ホ、人違ひといふ事がいよ/\解つたかネ、實はこれ/\だつたよ。」
と朝からの事を話して笑ひながら、
「一體その人相書といふのはどんなのだね?」
と訊くと、齡《とし》は二十八歳で、老《ふ》けて見える方、(私は三十四歳だが、いつも三つ四つ若く見られる)身長五尺二寸(私は一寸二三分)、着物はセルのたて縞(丁度私もセルのたて縞を着てゐた)、五月六日に東京を(私は五月八日)出て暫く音信も斷え、行先も不明であつたが、先日高野山から手紙をよこし、これから紀州の方へ行つてみるつもりだといふ事と二度とはお目にかかれぬだらうといふ事とが認めてあつたのだ相だ。洋酒屋
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