「いえもうそれは種々な御事情もおありで御座いませうが、……實は高野山から貴下のお出しになつた葉書で、てつきりこちらへおいでになる事も解つてゐましたので、ちやんともうその人相書まで手前の方には解つてゐますので……」
「ナニ、人相書、それなら直ぐその男かどうかといふ事は解りさうなものぢアないか。」
「それがそつくり貴下と符合致しますので、もうお召物の柄まで同じなのですから、……兎に角お二階で暫くお待ち下さいまし、瀧の方へおいでになつた方々にも固く御約束をしておいた事ですから此處でお留め申さないと手前の手落になります樣なわけで……」
私はもうその男に返事をするのを見合せた。そして其處へ來て立つてゐる女中らしいのに、
「オイ、如何した飯は、酒は?」
と言ふと、彼等は惶てて顏を見合せた。先刻《さつき》からの騷ぎでまだ何の用意にもかかつてゐないのだ。
「ええ、どうぞ御酒でもおあがりになりながら、ゆつくり二階でお待ち下さいます樣に……」
と、その男は終《つひ》に私の手を取つた。
先刻《さつき》からむづ/\し切つてゐた私の肝癩玉はたうとう破裂した。
「馬鹿するな、違ふ。」
と、言ふなり私は洋傘《かうもり》を掴んで其處を飛び出した。そしてじやア/\降つてゐる雨の中を大股に歩き始めた。軒下まで飛んでは出たが流石にその男も其處から追つて來る事はしなかつた。
幸に私の歩き出した道は奈智行の道であつた。何しろ恐しい雨である。熊野路一帶は海岸から急に聳え立つた嶮山のために大洋の氣を受けて常に雨が多いのださうだが、今日の雨はまた別だ。幾らも歩かないうちに全身びしよ/\に濡れてしまつた。先刻からの肝癪で夢中で急いではゐるものの、程なく疲れた。そして今度は抑へ難い馬鹿々々しさ、心細さが身に浸み込んで來た。矢張り來るのではなかつた、赤島の温泉場から遠望しておくだけに留めておけばよかつた、斯んな状態で瀧を見たからとて何になるものぞ、いつそ此處からでも引返さうか、などとまで思はれて來た。赤島で三晩ほど休んでゐる間に幾らか身體の疲勞も除《と》れて來た。この調子で奈智へ登つて、其處の山上にあるといふ宿屋に籠つて青葉の中の瀧を見てゐたら、それこそどんなに靜かな心地になれるだらう、それでこそ遙々出て來た今度の旅の難有さも出るといふものだ、と種々な可懷しい空想を抱いて雨の中を出かけて來たのだが、まだ山にかかりもせぬ前から先刻の樣な騷ぎに出會つて、靜かな心も落ちついた氣分もあつたものではなかつたのである。半分は泣く樣な氣持でわけもなく歩いてゐると、後から馬車が來た。そして馬車屋が身近くやつて來て乘れと勸める。何處行きだと訊くと奈智の瀧のツイ下まで行くといふ。直ぐ幌を上げて乘り込むと驚いた。先刻の宿屋に休んでゐた三人連の一行が其處に乘り込んでゐたのだ。
向うでは前から私だと知つてゐたらしく、お互ひにそれらしい顏を見合せて默り込んだ。平常《いつも》ならば私も挨拶の一つ位ゐはする所であるが、彼等の好奇に動く顏を見るとまた不愉快がこみ上げて來て目禮一つせず、默つたまま、隅の方に腰を下した。四方とも黒い油紙で包み上げた馬車の中は不氣味な位ゐ暗かつた。そして泥田の樣な道を辿つてゐるので、その動搖は想像のほかであつた。四五丁も行つたと思ふころ、馬車屋が前面の御者臺の小さなガラス窓から振返つて私あてに聲をかけた。この降るなかをお詣りかと訊くのだ。奈智と云へば私は唯だ瀧としか聯想しなかつたが、其處には熊野|夫須美《ふすみ》神社といふ官幣か國幣の大きな神社があり、西國三十三ヶ所第一の札所である青岸渡寺とい古刹もあるのである。併し、御者のわざ/\斯う訊いたのは決して言葉通りの意味でないことを私は直ぐ感じた。此奴、驛前の宿屋で聞いて來たナ、と思ひながら慳貪《けんどん》に、
「イヤ、瀧だ。」
と答へた。
「瀧ですか、瀧は斯んな日は危う御座んすよ。」
と言ふ。にや/\してゐる顏がその背後《うしろ》から見える樣だ。
暫く沈默が續くと、今度は私と向ひ合ひに乘つてゐる福々しい老人が話しかけた。このお山は初めてか、といふ樣なことから、今日は何處から來たか、お山から何處へ行くかといふ樣な事だ。言葉短かにそれに返事をしてゐると、他の二人も談話の中に加はつて來た。これは老人とは違つた、見るからに下卑た中年の夫婦者である。私はよく/\の事でなければ返事をせず、一切默り込むことにしてゐた。すると次第に彼等同志だけで話が逸《はず》んで來て、後には御者もその仲間に入つた。多くは瀧が主題で、この近來どうも瀧に飛ぶ者が多くて、そのため村では大迷惑をしてゐる、瀧壺の深さが十三尋もあつて、しかもその中は洞になつてゐると見え、一度飛んだ者は決して死骸が浮んで來ない、所詮駄目だと解つてはゐるものの村ではどうしても其儘《
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