日も雨であつた。また滯在ときめる。旅費の方が餘程怪しくなつてゐるが、此處に遊んだ代りに瀞八丁の方を止してしまふことにした。午後は晴れた。釣竿を借りて庭さきから釣る。一向に釣れないが、二時間ほども倦きなかつた。澄んだ海の底を見詰めてゐると實に種々な魚が動いてゐるのだ。
六月五日、また降つてゐた。
でも、今日こそは立たうと思つてゐた。瀞《とろ》八丁を止すついでに奈智の瀧も此處から見るだけに留めて置かうかとも思つたが、幾らか心殘りがあるので思ひ切つて出かける。船頭の爺さんに頼んで汽船から見て來た港口の島々の間の深く湛へたあたりを漕いで※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]る。見れば見るほど、景色のすぐれた港だと思はれた。そして對岸の港町に上つて停車場へ行つた。雨が烈しいので、袴も羽織も手提も一切まとめて其處に預けて、勝浦新宮間に懸つてゐる輕便鐵道に乘り込んだ。間もなく二つ目の驛、奈智口といふので下車。
雨はまるで土砂降に降つてゐた。幾ら覺悟はしてゐてもこれでは餘にひどいので少し小降になるまで待つてから出かけようと停車場前の宿屋に入つた。そして少し早いが晝食を註文してゐると、突然一人男が奧から馳け出して來て私の前に突つ立つた。その眼は妙に輝いて、聲まで逸《はず》んでゐる。貴下《あなた》は東京の人だらう、と言ひながら頭の頂上《てつぺん》から爪先まで見上げ見下してゐる。何氣なく左樣だと答へると、何日にあちらを立つたと訊く。ありのままに答へると、さもこそと云はむばかりに獨り合點して更に何處から何處を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてゐたかと愈々勢込んで來た。そのうちに奧からも勝手からもぞろぞろと家族らしいもの女中らしいものが出て來た。その上、先刻《さつき》から店さきに休んでゐた同じく奈智行らしい一行の人たちも立つてこちらを覗き込んで來た。私は何とも知れぬ氣味惡さを感じながら無作法に自分の前に突つ立つてまじ/\と顏を覗き込んでゐる痩せた、脊の高い、眼の險しい四十男を改めて見返さざるを得なかつた。そして簡單に京都大阪奈良と答へてゐると、急に途中を遮つて、高野山に登つたらうと言ふ。まことに息を逸ませてゐる。私はもう素直に返事するのが不快になつた。で、左樣《さう》だ、と言つた。實は其處には登る筈ではあつたが登らずに來たのであつた。それを聞くとその男は愈々安心したといふ風に、脊を延ばして初めて氣味の惡い微笑を漏らしながら、左樣《さう》でせう、確かに左樣だらうと思つた、サ、何卒《どうぞ》お二階にお上り下さい、實は東京からあなたを探《たづ》ねていらした方があるのです、と言ふ。今度は私の方で驚いた。そして思はず立ち上つた。
「え、誰だ、何といふんです、……僕は若山と云ふのだが。」
「へゝえ、誰方《どなた》ですか、もう直ぐこれへ歸つておいでになりますで、……實はあなたを探して一先づ瀧の方へおいでになりましたので、もう直ぐこれへお歸りで御座いますから、まア、どうぞお二階へ。」
といふ。
この正月の事であつた、私は伊豆の東海岸を旅行して二日の夜に或る温泉場へ泊つた。すると、同じその夜、その土地の、同じ宿屋の、しかも私と襖一重距てた室へ私の友人の一人が泊り合せて、さうして二人ともそれを知らずに、翌日それ/″\分れ去つた事があつたのだ。この番頭らしい怪しき男の今までの話を聞いてゐて、端なく思ひ出したのはその事である。そして私がこの頃この熊野を通つて、奈智へ登るといふ事は東京あたりの親しい者の間には前から知れてゐた事實である。誰か氣まぐれに後から追つて來て、今日それが此處を通つたかも知れぬといふ事は強《あなが》ちに否定すべき譯に行かなかつた。まして此場の異常に緊張した光景は確かにそれを思はするに充分であつた。
「え、誰です、何といふ男が來ました?」
あれかこれかと私は逸速くさうした事をしさうな友人を二三心に浮べながら、もう眼の前にそれらの一人の笑ひ崩るる顏を見る樣な心躍りを感じて問ひ詰めた。
今度は相手の方がすつかり落ち着いてしまつた。環《わ》を作つて好奇の眼を輝かせてゐる女中や家族や客人たちをさも得意げに見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]して、兎に角此處では何だから二階にあがれ、と繰返しながら、一段聲を落して、
「東京では皆さんがえらく御心配で、ことに御袋樣などはたとへ何千圓何萬圓かかつてもあなたを探し出す樣にといふわけだ相で……」
と言ひ出した。
此處まで聞いて私は再びまた呆氣にとられた。何とも言へぬ苦笑を覺えながら、
「さうか、それでは違ふよ、僕は東京者には東京者だが、そんな者ぢアない、人違ひだ。」
と馬鹿々々しいやら、また何かひどくがつかりした樣な氣持にもなつて再び其處へ腰掛けやうとすると、なか/\承知しない。
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