まれた。
 凪ぎ果てた港には發動船の走る音が斷間なく起つて居る。みな鰹船で、この二三日とりわけても出入が繁いのださうだ。夕方、特に注文して大ぎりにした鰹を澤山に取り寄せた。そして女中をも遠ざけて唯一人、いかにも遠くの旅さきの温泉場に來て居る靜かな心になつて、夜遲くまでちび/\と盃を嘗めてゐた。
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したたかにわれに喰《くは》せよ名にし負ふ熊野が浦はいま鰹時
熊野なる鰹の頃に行きあひしかたりぐさぞも然《し》かと喰《を》せこそ
いまは早やとぼしき錢のことも思はず一心に喰へこれの鰹を
むさぼりて腹な破りそ大ぎりのこれの鰹をうまし/\と
あなかしこ胡瓜もみにも入れてあるこれの鰹を殘さうべしや
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 六月三日、久しぶりにぐつすりと一夜を睡つて眼を覺すとまた雨の音である。戸をあけてみると港内一帶しら/″\と煙り合つて、手近の山すら判然とは見わかない。たゞ發動機の音のみ冴えてゐる。
 朝の膳にもまた酒を取り寄せて今日は一日この雨を聞きながらゆつくりと休むことにした。東京の宅を立つたのが先月の八日、二週間ほどの豫定で出て來た旅が既うかれこれ一月に及ぼうとしてゐるのである。京都|界隈《かいわい》から大阪奈良初瀬と※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて紀州に入り込んだ時はかなり身心ともに疲れてゐた。それに今までは到る所晝となく夜となく、歌に關係した多勢の人、それも多くは初對面の人たちに會つてばかり歩いて來たので心の靜まるひまとては無かつた。それが昨夜、和歌の浦からこの熊野※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りの汽船に乘り込んで漸く初めて一人きりの旅の身になつた樣な心安さを感じて、われ知らずほつかりとしてゐた所である。初めの豫定では勝浦あたりに泊る心はなく、汽船から直ぐ奈智に登つて、瀞《とろ》八丁に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて新宮に出て、とのみ思うてゐた。が、斯うして思ひがけぬ靜かな離れ島の樣な温泉などに來てみるとなか/\豫定通りに身體を動かすのが大儀になつてゐた。それにこの雨ではあるし、寧ろ嬉しい氣持で一日を遊んでしまふことに決心したのである。
 午前も眠り、午後も眠り、葉書一本書くのが辛くてゐるうちに夜となつた。雨は終日降り續いて、夜は一層ひどくなつた。客は他に三四人あつたらしいが、靜けさに變りはない。
 翌
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