く、微かに紅《あか》みが潮《さ》してゐるのがなか/\に哀れである。彼の特色の大きい黒い瞳ばかりはさして昔に變らず、すが/\しく釣竿の一端に注がれてある。重さうに彼は時々兩手でその竿を動かす。竿が動き、糸が動き、糸のさきにつながれて居る囮《おとり》の鮎《あゆ》まで銀色の水の中から影を表すことがある。いま彼のあはれな全生命は懸つてその竿の一端にあるのだ。暫く見つめて居るうち、一尾の魚が彼の鉤《はり》にかゝつたらしい。彼は忽ち姿勢を頽《くづ》して、腰から小さな手網を拔きとり、竿を撓《たわ》ませて身近く魚を引寄せ、終《つひ》に首尾よく網の中に收めて了つた。そして彼はそれを靜かに窺き込んで居る。噫《あゝ》、その無心の顏、自分は自分の瞼の急に重くなるを感じた。
一尾を釣り得て彼は少なからず安堵《あんど》したらしく、竿をば石の間に突き立てゝおいて、岩の上に蹲踞《しやが》んだ。兩手で※[#「月+咢」、第3水準1−90−51]《あご》を支へて茫然と光る瀬の水を凝視して居る。自分との間は十間と距つてゐない。けれども榎の根もとの岩蔭の自分は彼の眼には入り難《にく》い。餘程起き出でて彼を呼ばうかとも思つたが、彼の姿を見てゐては何とも言へぬ一種の壓迫を感じて急《には》かに聲をも出しがたい。自分は終に默つてゐた。やがて彼はまた立ち上つた。少し所を變へて再び竿を動かしてゐる所へ、その背後《うしろ》の方からまた一人竿を持つて人が來た。傳造である。彼等父子は顏を見合つて莞爾《につこり》した。そして無言のまゝ竿を並べて瀬に對《むか》つた。自分は久しいこと巖蔭の冷たいところへ寢てゐなくてはならなかつた。
その翌年の夏、自分がまた村に歸つた時には初太郎は死んでゐた。或日わざ/\前年彼を見た榎《えのき》の蔭に行つてみた。同じく晴れた日で、風は冴え瀬は光つてゐたけれども、既にその時は如何に力めても、其處の岩上に佇みし彼、曾て自分同樣に此所等に生息してゐた彼、及び現に空冥|界《さかひ》を異《こと》にしてゐる彼を切實に思ひ浮べることは出來なかつた。彼は死んだ、彼は死んだと徒らに思つたのみで。
不幸は靜かな湖面に石を投げたやうなものであらう、一點から起つて次第に四邊に同じ波紋を擴《ひろ》げて行く。初太郎の死後幾日ならずして彼の父は博奕《ばくち》のことから仲間を傷けて、牢屋に送られたのみならずその入獄の際には彼は烈しい眼病をわづらつてゐたとのことである。これらの話を話す時は、流石にわが母も笑はなかつた。自分の家でも父の手を出してゐた二三の鑛山事業がいよいよ失敗と定まつたので、また近々に大決斷で殘部の山や畑を賣拂はねばならぬことになつてゐたのである。萬事につけ父も母ももう人の惡口を言ふたり笑つたりしてゐる餘裕などはかりそめにも失くなつてゐたのだ。自然無言勝ちになつた父母の顏には汚い白髮が、けば/\しく眼に立つて來た。
その翌春、自分は中學を卒業すると同時にひそかに郷國を逃げ出して東京へ出て、或る私立學校の文學科に入つて了つた。卒業前、父はわざ/\村から自分を中學の寄宿舍まで訪ねて來て、いつもに似ず悄然と、何卒この場合精紳を堅固にして迷はぬやうに心がけて呉れと寧ろ哀訴するやうに自分に注意した。迷はぬやうにとは、父はかねて自分を直實な醫者にするつもりであり、自分は文學をやると言ひ張つて、久しく言ひ合つてゐたのであつたが、終《つひ》に自分は内心策をかまへて、表面だけ父の意に從ふやうに曾つて誓つたことがあつたので、何卒その誓ひを完うして呉れといふのである。けれども自分は終にこの老いたる父に反《そむ》いた。四月六日の夜、細島港を出帆する汽船|某《なにがし》丸の甲板に佇んで、離れゆく日向の土地を眺めやつた時、自分は欄を掴んで、父の顏を思ひやつた。
三年目に自分は重い病氣にかゝり父母から招かれて國へ歸つた。二階のお寺のやうな廣い冷たい座敷に寢て居ると、溪を越して小高く圓い丘に眞青に麻の茂つて居るのが見える。其丘は二三年前まで松や檜の鬱蒼と茂つてゐた所である。その森は父より三代目以前の人とかゞ植ゑ始めたものだと傳へられてゐた。森をめぐつて深い溪がある。丁度我家から見れば淵は青く瀬は白く、ずうつと森を取卷いてゐるやうに見えて、その邊一帶が大きな自然のまゝの庭園ともなつて居るし、朝夕斯う見馴れては他の處と違つてどうしても手離しがたい、こればかりはどうとかして賣らずに置きませうと家中皆が話し合つて居たその森もとうとう斯んな青い畑になつて了つた。よく見れば麻畑の隅の方に粟らしいものが作つてある。もうよく實つてゐると見えて、うす黄に色づいたその畑中に男が一人女が二人、眞晝の日光を浴びてせつせ[#「せつせ」に傍点]とそれを刈つて居る。唄もうたはず、鎌のみが時々ぴか/\と光る。
或日のこと、母が幼
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