は全く夢中になつて啀《いが》み合はざるを得ない。自分の如きは晝夜戰爭にでも出てゐる氣持で勉強した。殆んどもう何年級などといふことには頓着無く、教科書ばかりでは飽足らず、「少國民」「幼年雜誌」などといふ雜誌をも取寄せて耽讀し、つゆほどの知識をも見逃すまじと備へた。
 所が初太郎は突如として、その村の小學校を去つて(彼はその頃、尋常科の補習部にゐた)縣廳所在地の宮崎町の高等小學に轉じた。自分との啀《いが》み合ひが無かつたのならば當然彼は土地の尋常科補習部を卒業したままで、靜かにその山村生活に入るべきであつたのである。
 取殘された自分は、さらばといふので舊藩主の城下たる延岡町の高等小學に進んだ。兩個の少年は遠く三十里の平原を距てゝ尚ほ且つ力み合つてゐたのである。高等小學二年を修業して自分が其土地の中學校へ入つたころは、初太郎は既に中學の二年級であつた。彼の勉強はその地方の評判に上る位ゐになり、勉強《べんきやう》狂人《きちがひ》と人は評し合つてゐたといふ。勿論自分も勉強した。一時は級の首席をも占領し、可なりに勉強家といふ評判をも取つてゐた。けれどもさういふ時期は極めて短かかつた。中學の二年級の終りの頃からででもあつたらう、嚴格を極めてゐた寄宿舍内の自分の机の抽斗《ひきだし》の奧には、歌集「みだれ髮」がかいひそみ、縁の下の乾いた土の中には他人の知らぬ「一葉全集」が埋められてあるやうになつたのは。机に對ふことも極めて少なくなり、多くの時間は學校の裏山の木の蔭や、程ちかい海のほとりの砂原で費されるやうになつて了つた。撃劍や野球の稽古に常に小鳥の如く輝いてゐた自分の瞳には日に増し故の無い一種の沈悒を湛へて來た。珍しく机に對つても茫然と考へ込むことが多かつた。
 いつの年であつたか、自分は久しく忘れてゐた初太郎の名を新聞で見た。彼が初めから終りまで首席で通して目出たく今囘卒業したことを賞讚した報道で、次いで今後直ちに彼は高等學校の醫學部に進むべしと書き添へてあつた。丁度その年のこと、夏になつて自分は休暇で村に歸省した。父母はこの一二年前よりの自分の成績の惡くなつたことを口を極めて叱責し、聲をひそめて、初太郎を見ろと言つた。それでもすぐまた續けて、父は微かな冷笑を眼に浮べて、然し、幾ら勉強が出來たところで、あの身體ぢや既う駄目だ、と言ひ足した。母も續いて、それにあゝ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りがわるくては傳造も息子をば如何することも出來ないだらう、とこれも口の邊《ほとり》で聲を出さずに笑つた。自分は心の中で、初太郎が熊本で高等學校の入學試驗を受けに行つてゐて勉強過度の結果急に血を咯《は》いて、其父の傳造が迎ひに行つてからもう一ヶ月半にもなるといふ話を思ひ起してゐた。なほ聞けば、この一年程以前からあの傳造の賽《さい》の目の出が急にわるくなつて、瞬く間に財産の大半をば減《す》つてしまつたとかいふことで、どうせ泡のやうに出來たものだから泡のやうに無くなつて行くのも無理は無からうと、母は父を見遣つて微笑した。その横顏を見てゐて自分は少なからず淺間しく且つ面憎く思はざるを得なかつた。我等自身の家でもその年は血の出るやうな三度目の山賣りを斷行して、辛くも焦眉の急の借財を返した當座では無かつたか。先祖代々が命より大事にして固守し來つた山林田畑を自分等の代になつて賣拂つて、そして「舊家」を誇るといふは少々面の皮が厚過ぎはしないだらうか。斯く思ふと自分はその座の酒さへ耐へがたく不味《まづ》かつた。
 その夏は暮れ、翌年の夏、自分はまた歸村した。初太郎の肺病はやゝ輕くなつてゐて、その頃は折々溪河へ魚釣などにも出て來ることがあつた。或日のこと、自分は我家のすぐ下の瀧のやうになつて居る長い瀬のほとりの榎の蔭で何か讀書してゐた。日は眞晝、眼前の瀬は日光を受けて銀色に光り、峽間《はざま》の風は極めて清々《すが/″\》しく吹き渡り、細《こま》かな榎の枝葉は斷えず青やかな響を立てゝそよめいてゐた。雲も無い空は峯から峯の輪郭を極めて明瞭に印して、誠に強烈な「夏の靜けさ」に滿ちた日であつた。何を讀んでゐたのであらう、定かには覺えて居らぬ。とにかくしんみり[#「しんみり」に傍点]と身も心をも打ち込んで、靜かな感興を放肆《ほしいまま》にしてゐたに相違ない。所が不圖《ふと》何ごころなく眼を書物から外すと、すぐ自分の居る對岸に一個の男が佇んで釣竿を動かして居る。注意するまでもなく自分は直ちに彼の初太郎であることを知つた。
 なるほど痩せた。特に濡れた白襦袢一枚のぴつたり[#「ぴつたり」に傍点]と身に密着《くつつ》いて、殆んど骨ばかりの人間が岩上に佇んで居るとしか見えない。多く室内にゐて珍しく出かけて來たのであらう、日に炒《い》りつけられた麥藁帽子の蔭の彼の顏は痛々しく蒼白
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