い子供を抱いて笑ひながら二階に上つて來た。不思議に思つて見て居ると、母は自分の枕もとに坐つて、その子を自分の方に押し向けて、なほ笑つて居る。田舍者の産んだらしくもない可愛らしい男の子だ。
『何處の子です?』
 と訊くと、
『それ、あの初さんのだよ。』
 といふ。自分は驚いた。いつの間に初太郎は斯んなのを産《こさ》へておいたのであらう。聞けば彼の病氣の烈しかつた時一生懸命になつて彼を看護した彼の家の下女が是を産んだのだ相だ。彼女《かれ》は初めはどうしても誰の子であると言はなかつたさうだが、幾月も經《た》つてからとうとう打明けて了つたといふ。何故かくしておいたかと訊いたら、肺病人の子と知れたらとても眞人間扱ひはせられないだらうと思つたからだと答へるので、それなら何故ずつと隱し通さなかつたと重ねて訊くと、日が經つに從つて段々死んだ人に似て來るからだと言つた相だ。初太郎は自身の子を見ずに死に、勿論子は永久にその父を知らない。自分は急に逢ひたくなつて用事に來て居るといふその子の母を見に下に降りて行つた。色こそ可なりに白けれ、頬骨の太い眉の太い鼻の小さな唇の厚い、夥しく醜い女である。けれども心はいかにも好いらしく、一寸見たゞけでも自分もこの女を可愛く思つた。今は半分|盲目《めくら》のその子の祖父《ぢい》に仕へて羨しいほど仲睦じく暮して居るといふ。自分はその子を抱いてみた。割合ませ[#「ませ」に傍点]た口を利く。なるほど見れば見るほど氣味のわるいまで亡き友に酷似《こくじ》して居る。自分の心の奧にはあり/\と故人の寂しい面影が映つてゐた。
 自分の病氣は二ヶ月あまりで辛くも快くなつた。それを待つて暇を告げて自分は郷里を去つた。いよ/\明日出立するといふ前の晩、兩人の親と一人の子とは、臺所に近い小座敷で向き合つて他人入らずの酒を酌んだ。そのころ、山の深い所だけにこゝらの天地には既う秋が立つてゐた。言葉數も少なく、杯も一向に逸《はず》まぬ。座の一方の洋燈には冷やかに風が搖《ゆら》いで居る。此ごろでは少し飮めばすぐに醉ふやうになつてゐる父が、その夜は更に醉はない。
『お前、一體そのお前の學校を卒業すると何になれるのだとか云つたな?』
 暫く何か考へてゐて彼は斯う問ひかけた。
『左樣ですね、まア新聞記者とか中學校の教師とかでせう。』
『すると何かい、月給でいふとどの位ゐ貰へるのかい?』
 自分は窮した。まさかD氏が何新聞で二十二圓、S氏が何中學で二十五圓貰つて居ると、自分の先輩の先例を引くわけにも行かなかつた。自分の默つて居るのをじろ/\と見てゐて、
『せめて五十圓も取れるのかい?』
『え、まア確かにとは言へませんがね……それに何です、私はそんな者にならうとは思つてゐませんのですから……』
『そんな者つて……では一體何になるのや?』
『文學……純文學を目下研究してゐますので……』
 とは言ひかけたが、是にも窮《つま》つた。如何してもこの髮の白い人に向つて、私は詩人になるのです、小説家になるのです、とは言ひ得なかつた。
 母も常に不安の眼をおど/\させて自分等の話を聽いてゐたが、自分がいよ/\答へに困つて來るのを見ると、
『とにかく何かになつて呉れるのだらうね、お前のことだからまさか[#「まさか」に傍点]のこともあるまいと思つて、まア安心はして待つてゐるよ。家《うち》もお前、毎年々々斯んな風になつてゆくのでね、阿父さんも急に老《ふ》けたし、今まで通りの働きも無くなつたしね、まアほんとにお前、夜も晝も心配の絶えたといふことは無いんだから、たゞもうお前一人が頼みでね……』
 母の愚痴は長かつた。常には大の愚痴嫌ひの父もその夜はたゞ母の言ふがまゝに任せた。その間自分はつとめて他のことを心に思ひ浮べてゐたが、それでもいつしかいかにも胸が遣瀬《やるせ》なくなつて、つめたい涙は自然に頬を傳つて來る。膝を兩手で抱いて、身を反《そら》して開け放した窓さきの樹木に日光[#「日光」はママ]の流れてゐるのを拭ひもせぬ眼で見つめて居ると、母もいつしか語を止めてゐた。
 自分の村を出はづれたところに、大きな河が流れて居る。其處を渡舟《わたし》で渡ると、道はやゝ長いこと上り坂になつて居る。その坂の中ほどで自分は久しぶりに傳造に出會つた。黒い眼鏡をかけて、酷《ひど》くやつれてゐたけれど、自分にはすぐ解つた。一も二もなく自分は歩み寄つて言葉をかけた。彼はもう誰だか少しも覺えが無い。見えない眼を切《しき》りに働かせて見定めようとする。
『僕ですよ、私ですよ、田口の藤太ですよ。』
 と押しかけて言ふと、初めて合點が行つたらしく、
『ほう左樣ですけねえ。』
 自分が改めて初太郎のくやみを述べると、それには殆んど返事もせず、何處へおいでなさると訊く。また東京へ行つて來ますと答へると、へえ[#
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