解け、愈々金比羅參り大阪見物のお伴が許されることになりました。
 その道中記が素晴らしく面白いのだが、それはまたの時にゆづります。なにしろ三十三年前のことで、日向から大阪にゆくといふのはたいしたことであつたのです。汽船も百噸か二百噸の小さなもので、細島から大阪までまる三日かゝつて到着するのは極くいゝ方で、風雨の都合荷物の都合では、四日も五日もかゝつたものなのです。
 學校の先生は日吉昇先生といふかたでした。たいへんいい先生で、無論わたしのやつたことの眞相をば推察されたでせうが、知らぬ振をして叱りもせず落第もさせず、今まで一番であつた席次を四番だかに下げて、及第さしてありました。書置をして來た宿の立腹はたいしたもので、早速下宿を斷る旨の手紙がわたしの郷里|坪谷《つぼや》村の父の許に飛び、驚き狼狽へた父が、早速延岡まで出かけて行つて、これもどうやらもと通りに納りました。
 話はずつと飛んで一昨年、大正十四年のことになります。わたしがこの駿河《するが》の沼津に自分の住宅を建てようとする企てのある事が、或る新聞の文藝消息欄に出ました。すると一通の手紙がわたしの許に屆きました。若山、君は家を造るさうだが、その設計は乃公《おれ》がしてやるから一切任せろ、といふ文面です。いふまでもなく村井建築技師から來たもので、わたしも大いに嬉しくなり、それまでの腹案をば捨てて、難有《ありがた》い、一切頼むと返事しました。彼とはその後、中學をも同級で過し、東京の學校に來る時も一緒でした。
 そして、彼は建築學の方の學校を卒業し、わたしは文學の方を出ました。お互ひにのんき者[#「のんき者」に傍点]のことで、學校を出るなり音信不通の有樣で、右の手紙など恐らく十五六年目に見た彼の手蹟であつたのです。
 彼は早速東京からやつて來ました。そして敷地を見、大體の設計をし、愈々工事にかゝつてからも忙しい中を、一週間に一度位ゐづつこの沼津へ通つて來ては、大工たちに種々と注意してゐました。そして家ができ上つた祝ひの席にも來てくれました。その時わたしが、
『村井君、せめて汽車賃位ゐ出さないと僕もきまりが惡いが……』といひますと、彼はぐるり[#「ぐるり」に傍点]と眼玉を剥いて、
『馬鹿んこつ言ふな』
 と、久しぶりの日向辯でいつて、わたしを睨みました。



底本:「若山牧水全集第八巻」雄鶏社
   1958(昭和33)年9月30日初版1刷
入力:柴武志
校正:小林繁雄
2001年2月3日公開
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