で、一抱へに近い樣な大きな木が畑一面に立ち並んでゐるのである。老梅などに見る樣に半ばは幹の朽ちてゐるものもあつた。その大きな桑の木の立ち竝んだ根がたにはおほく大豆が植ゑてあつた。既に拔き終つたのが多かつたが、稀には黄いろい桑の落葉の中にかゞんで、枯れ果てたそれを拔いてゐる男女の姿を見ることがあつた。土地が高いだけ、冬枯れはてた木立の間に見るだけに、その姿がいかにも佗しいものに眺められた。
 そろ/\暮れかけたころ東小川村に入つて、其處の豪家C―を訪うた。明日下野國の方へ越えて行かうとする山の上に在る丸沼といふ沼に同家で鱒の養殖をやつてをり、其處に番小屋があり、番人が置いてあると聞いたので、その小屋に一晩泊めて貰ひ度く、同家に宛てゝの紹介状を沼田の人から貰つて來てゐるのであつた。主人は不在であつた。そして内儀から宿泊の許諾を得、番人へ宛てゝの添手紙を貰ふ事が出來た。
 村を過ぎると路はまた峽谷に入つた。落葉を踏んで小走りに急いでゐると、三つ四つ峰の尖りの集り聳えた空に、望《もち》の夜近い大きな月の照りそめてゐるのを見た。落葉木の影を踏んで、幸に迷ふことなく白根温泉のとりつきの一軒家になつてゐる宿屋まで辿り着くことが出來た。
 此處もまた極めて原始的な湯であつた。湧き溢れた湯槽には壁の破れから射す月の光が落ちてゐた。湯から出て、眞赤な炭火の山盛りになつた圍爐裡端に坐りながら、何は兎もあれ、酒を註文した。ところが、何事ぞ、無いといふ。驚き慌てゝ何處か近くから買つて來て貰へまいかと頼んだ。宿の子供が兄妹づれで飛び出したが、やがて空手で歸つて來た。更に財布から幾粒かの銅貨銀貨をつまみ出して握らせながら、も一つ遠くの店まで走つて貰つた。
 心細く待ち焦れてゐると、急に鋭く屋根を打つ雨の音を聞いた。先程の月の光の浸み込んでゐる頭に、この氣まぐれな山の時雨がいかにも異樣に、佗しく響いた。雨の音と、ツイ縁側のさきを流れてゐる溪川の音とに耳を澄ましてゐるところへぐしよ濡れになつて十二と八歳の兄と妹とが歸つて來た。そして兄はその濡れた羽織の蔭からさも手柄額に大きな壜を取り出して私に渡した。

 十月廿七日
 宿屋に酒の無かつた事や、月は射しながら烈しい雨の降つた事がびどく私を寂しがらせた。そして案内人を雇ふこと、明日の夜泊る丸沼の番人への土産でもあり自分の飮み代でもある酒を買つて來て貰ふことを昨夜更けてから宿の主人に頼んだのであつたが、今朝未明に起きて湯に行くと既にその案内人が其處に浸つてゐた。顏の蒼い、眼の瞼しい四十男であつた。
 昨夜の時雨が其の儘に氷つたかと思はるゝばかりに、路には霜が深かつた。峰の上の空は耳の痛むまでに冷やかに澄んでゐた。溪に沿うて危い丸木橋を幾度か渡りながら、やがて九十九折《つゞらをり》の嶮しい坂にかゝつた。それと共に四邊はひし/\と立ち込んだ深い森となつた。
 登るにつれてその森の深さがいよ/\明かになつた。自分等のいま登りつゝある山を中心にして、それを圍む四周の山が悉くぎつしりと立ち込んだ密林となつてゐるのである。案内人は語つた。この山々の見ゆる限りはすべてC―家の所有である。平地に均らして五里四方の上に出てゐる。そしてC―家は昨年この山の木を或る製紙會社に賣り渡した。代價四十四萬圓、伐採期間四十五箇年間、一年に一萬圓づつ伐り出す割に當り、現にこの邊に入り込んで伐り出しに從事してゐる人夫が百二三十人に及んでゐる事などを。
 なるほど、路ばたの木立の蔭にその人夫たちの住む小屋が長屋の樣にして建てられてあるのを見た。板葺の低い屋根で、その軒下には女房が大根を刻み、子供が遊んでゐた。そしてをり/\溪向うの山腹に大風の通る樣な音を立てゝ大きな樹木の倒るゝのが見えた。それと共に人夫たちの擧げる叫び聲も聞えた。或る人夫小屋の側を通らうとして不圖立ち停つた案内人が、
「ハハア、これだナ。」
と呟くので立ち寄つて見ると其處には三尺角ほどの大きな厚板が四五枚立てかけてあつた。
「これは旦那、楓《かへで》の木ですよ、この山でも斯んな楓は珍しいつて評判になつてるんですがネ、……なるほど、いゝ木理《もくめ》だ。」
 撫でつ叩きつして暫く彼は其處に立つてゐた。
「山が深いから珍しい木も澤山あるだらうネ。」
 私もこれが楓の木だと聞いて驚いた。
「もう一つ何處とかから途方もねえ黒檜《くろび》が出たつて云ひますがネ、みんな人夫頭の飮代になるんですよ、會社の人たちア知りやしませんや。」
 と嘲笑ふ樣に言ひ捨てた。
 坂を登り切ると、聳えた峰と峰との間の廣やかな澤に入つた。澤の平地には見る限り落葉樹が立つてゐた。これは楢でこれが山毛欅《ぶな》だと平常から見知つてゐる筈の樹木を指されても到底信ずることの出來ぬほど、形の變つた巨大な老木ばかりであつた。そし
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