てそれらの根がたに堆く積つて居る落葉を見れば、なるほど見馴れた楢の葉であり、山毛欅の葉であつた。
「これが橡《とち》、あれが桂、惡《あく》ダラ、澤胡桃《さはぐるみ》、アサヒ、ハナ、ウリノ木……。」
 事ごとに眼を見張る私を笑ひながら、初め不氣味な男だと思つた案内人は行く/\種々の樹木の名を倦みもせずに教へて呉れた。それから不思議な樹木の悉くが落葉しはてた中に、をり/\輝くばかりの楓の老木の紅葉してゐるのを見た。おほかたはもう散り果てゝゐるのであるが、極めて稀にさうした楓が、白茶けた他の枯木立の中に立混つてゐるのであつた。
 そして眼を擧げて見ると澤を圍む遠近の山の山腹は殆んど漆黒色に見ゆるばかり眞黒に茂り入つた黒木の山であつた。常磐木の森であつた。
「樅《もみ》、栂《つが》、檜、唐繪《たうび》、黒檜《くろび》、……、……。」
 と案内人はそれらの森の木を數へた。それらの峰の立並んだ中に唯だ一つ白々と岩の穗を見て聳えてゐるのはまさしく白根火山の頂上であらねばならなかつた。
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下草の笹のしげみの光りゐてならび寒けき冬木立かも
あきらけく日のさしとほる冬木立木々とりどりに色さびて立つ
時知らず此處に生《お》ひたち枝張れる老木を見ればなつかしきかも
散りつもる落葉がなかに立つ岩の苔枯れはてて雪のごと見ゆ
わが過ぐる落葉の森に木がくれて白根が嶽の岩山は見ゆ
遲れたる楓ひともと照るばかりもみぢしてをり冬木が中に
枯木なす冬木の林ゆきゆきて行きあへる紅葉にこころ躍らす
この澤をとりかこみなす樅栂の黒木の山のながめ寒けき
聳ゆるは樅栂の木の古りはてし黒木の山ぞ墨色に見ゆ
墨色に澄める黒木のとほ山にはだらに白き白樺ならむ
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 澤を行き盡すと其處に端然として澄み湛へた一つの沼があつた。岸から直ちに底知れぬ蒼みを宿して、屈折深い山から山の根を浸して居る。三つ續いた火山湖のうちの大尻沼がそれであつた。水の飽くまでも澄んでゐるのと、それを圍む四邊《あたり》の山が墨色をしてうち茂つた黒木の山であるのとが、この山上の古沼を一層物寂びたものにしてゐるのであつた。
 その古沼に端なく私は美しいものを見た。三四十羽の鴨が羽根をつらねて靜かに水の上に浮んでゐたのである。思はず立ち停つて瞳を凝らしたが、時を經ても彼等はまひ立たうとしなかつた。路ばたの落葉を敷いて飽くことなく私はその靜かな姿に見入つた。
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登り來しこの山あひに沼ありて美しきかも鴨の鳥浮けり
樅|黒檜《くろび》黒木の山のかこみあひて眞澄める沼にあそぶ鴨鳥
見て立てるわれには怯ぢず羽根つらね浮きてあそべる鴨鳥の群
岸邊なる枯草敷きて見てをるやまひたちもせぬ鴨鳥の群を
羽根つらねうかべる鴨をうつくしと靜けしと見つつこころかなしも
山の木に風騷ぎつつ山かげの沼の廣みに鴨のあそべり
浮草の流らふごとくひと群の鴨鳥浮けり沼の廣みに
鴨居りて水《み》の面《も》あかるき山かげの沼のさなかに水皺《みじわ》寄る見ゆ
水皺寄る沼のさなかに浮びゐて靜かなるかも鴨鳥の群
おほよそに風に流れてうかびたる鴨鳥の群を見つつかなしも
風たてば沼の隈囘《くまみ》のかたよりに寄りてあそべり鴨島の群
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 さらに私を驚かしたものがあつた。私たちの坐つてゐる路下の沼のへりに、たけ二三間の大きさでずつと茂り續いてゐるのが思ひがけない石楠木《しやくなぎ》の木であつたのだ。深山の奧の靈木としてのみ見てゐたこの木が、他の沼に葭葦の茂るがごとくに立ち生うてゐるのであつた。私はまつたく事ごとに心を躍らさずにゐられなかつた。
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沼のへりにおほよそ葦の生《お》ふるごと此處に茂れり石楠木の木は
沼のへりの石楠木咲かむ水無月《みなつき》にまた見に來むぞ此處の沼見に
また來むと思ひつつさびしいそがしきくらしのなかをいつ出でて來む
天地《あめつち》のいみじきながめに逢ふ時しわが持ついのちかなしかりけり
日あたりに居りていこへど山の上の凍《し》みいちじるし今はゆきなむ
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 昂奮の後のわびしい心になりながら沼のへりに沿うた小徑の落葉を踏んで歩き出すと、程なくその沼の源とも云ふべき、清らかな水がかなりの瀬をなして流れ落ちてゐる處に出た。そして三四十間その瀬について行くとまた一つの沼を見た。大尻沼より大きい、丸沼であつた。
 沼と山の根との間の小廣い平地に三四軒の家が建つてゐた。いづれも檜皮葺の白々としたもので、雨戸もすべてうす白く閑ざされてゐた。不意に一疋の大きな犬が足許に吠えついて來た。胸をときめかせながら中の一軒に近づいて行くと、中から一人の六十近い老爺が出て來た。C―家の内儀の手紙を渡し、一泊を請ひ、直ぐ大圍爐裡の榾火《ほだび》の側
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