。一二度停車して普通の驛で呼ぶ樣に驛の名を車掌が呼んで通りはしたが、其處には停車場らしい建物も灯影も見えなかつた。漸く一つ、やゝ明るい所に來て停つた。「二度上」といふ驛名が見え、海拔三八〇九呎と書いた棒がその側に立てられてあつた。見ると汽車の窓のツイ側には屋臺店を設け洋燈を點し、四十近い女が子を負つて何か賣つてゐた。高い臺の上に二つほど並べた箱には柿やキヤラメルが入れてあつた。そのうちに入れ違ひに向うから汽車が來る樣になると彼女は急いで先づ洋燈を持つて線路の向う側に行つた。其處にもまた同じ樣に屋臺店が拵へてあるのが見えた。そして次ぎ/\に其處へ二つの箱を運んで移つて行つた。
 この草津鐵道の終點嬬戀驛に着いたのはもう九時であつた。驛前の宿屋に寄つて部屋に通ると爐が切つてあり、やがて炬燵をかけてくれた。濟まないが今夜風呂を立てなかつた、向うの家に貰ひに行つてくれといふ。提燈を下げた小女のあとをついてゆくとそれは線路を越えた向う側の家であつた。途中で女中がころんで燈を消したため手探りで辿り着いて替る替るぬるい湯に入りながら辛うじて身體を温める事が出來た。その家は運送屋か何からしい新築の家で、家財とても見當らぬ樣ながらんとした大きな圍爐裡端に番頭らしい男が一人新聞を讀んでゐた。

 十月十八日
 昨夜炬燵に入つて居る時から溪流の音は聞えてゐたが夜なかに眼を覺して見ると、雨も降り出した樣子であつた。氣になつてゐたので、戸の隙間の白むを待つて繰りあけて見た。案の如く降つてゐる。そしてこの宿が意外にも高い崖の上に在つて、その眞下に溪川の流れてゐるのを見た。まさしくそれは吾妻川の上流であらねばならぬ。雲とも霧ともつかぬものがその川原に迷ひ、向う岸の崖に懸り、やがて四邊《あたり》をどんよりと白く閉して居る。便所には草履がなく、顏を洗はうにも洗面所の設けもないといふこの宿屋で、難有いのはたゞ炬燵であつた。それほどに寒かつた。聞けばもう九月のうちに雪が來たのであつたさうだ。
 寒い/\と言ひながらも窓をあけて、顎を炬燵の上に載せたまゝ二人ともぼんやりと雨を眺めてゐた。これから六里、川原湯まで濡れて歩くのがいかにも佗しいことに考へられ始めたのだ。それかと云つてこの宿に雨のあがるまで滯在する勇氣もなかつた。醉つた勢ひで斯うした所へ出て來たことがそゞろに後悔せられて、いつそまた輕井澤へ引返さ
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